一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立場からすれば、中央豪族の私有に甘んじるよりも、大海人皇子を支持して彼の下で国づくりを進めた方が、遥(はる)かに理想的といえました。
これらの理由があったからこそ、一種のクーデターともいえる壬申の乱が成功したのでしょう。なお、大友皇子は、壬申の乱から約1200年後に、明治政府によって「弘文天皇(こうぶんてんのう)」の名を贈られています。
壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武天皇(てんむてんのう)となられました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
行ったために勝利したと言う事でしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
> 行ったために勝利したと言う事でしょうか?
結論的にはそうなりますね。改新事業の後退は、中央豪族という「既得権者」にとっては旨みがあっても、名もなき国民には不利になるばかりですから。
いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
行ったために勝利したと言う事でしょうか?
> 行ったために勝利したと言う事でしょうか?
結論的にはそうなりますね。改新事業の後退は、中央豪族という「既得権者」にとっては旨みがあっても、名もなき国民には不利になるばかりですから。