井上は、条約改正を有利に進めるためには欧米列強の制度や風俗、あるいは習慣や生活様式などを我が国でも積極的に導入すべきであると考え、明治16(1883)年に洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)を東京・日比谷に建設して、国際的な社交場としました。
鹿鳴館では連日のように舞踏会(ぶとうかい)が行われ、我が国の要人も、夫人に洋装させてダンスを踊り続けました。井上によるこれらの手法は欧化政策(おうかせいさく)と呼ばれていますが、条約改正のためには格式にこだわってはいられないという、明治の要人たちの必死の思いと気概を感じさせるエピソードでもあります。
こうした努力が実ったのか、明治20(1887)年には外国人の内地雑居(ないちざっきょ、外国人に我が国への自由な居住を認めること)を認める代わりに、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を盛り込んだ改正案を列強が了承しました。
しかし、領事裁判権の撤廃には「ある条件」があり、またその条件と深くかかわった「ある事件」が起きていたことによって、井上は政府の内外で大きな非難を受けてしまったのです。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
あの有名な鹿鳴館は、そんな政府の苦肉の策から
生まれた建物だったとは存じませんでした。
その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あの有名な鹿鳴館は、そんな政府の苦肉の策から
> 生まれた建物だったとは存じませんでした。
> その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
政府も遊びであんな建物をつくったわけではなかったんですよね。
ただ、井上氏は条約改正を急ぐあまり、禁じ手ともいえる事をしでかしていたのです…。
ぴーち おはようございます!
さすがに、遊びで・・とまでは思いませんでしたが、
単に西洋かぶれが高じて作られた建物だったのか・
くらいにしか考えておりませんでしたので、
内情を伺えて勉強になりました^^
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、お言葉有難うございます。
鹿鳴館を始めとして、特に近代における政府の苦悩が、完全に誤解(あるいは曲解)されていることが多いですからね。これからも真実を見極めていきますので、よろしくお願いいたします。
あの有名な鹿鳴館は、そんな政府の苦肉の策から
生まれた建物だったとは存じませんでした。
その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
> 生まれた建物だったとは存じませんでした。
> その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
政府も遊びであんな建物をつくったわけではなかったんですよね。
ただ、井上氏は条約改正を急ぐあまり、禁じ手ともいえる事をしでかしていたのです…。
さすがに、遊びで・・とまでは思いませんでしたが、
単に西洋かぶれが高じて作られた建物だったのか・
くらいにしか考えておりませんでしたので、
内情を伺えて勉強になりました^^
鹿鳴館を始めとして、特に近代における政府の苦悩が、完全に誤解(あるいは曲解)されていることが多いですからね。これからも真実を見極めていきますので、よろしくお願いいたします。