寺島はアメリカとの間で関税自主権回復の同意を得ることができましたが、当時アジアに対して大きな利権を持っていたイギリスやドイツが反対したことで、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまいました。
また、寺島が条約改正の交渉をしていた頃の明治10(1877)年に、イギリス商人のハートレーが我が国にアヘンを密輸入して捕まりながら、イギリス人の裁判によって無罪となったというハートレー事件が起きました。
さらに明治12(1879)年には、西日本を中心にコレラが流行した際に、神戸に停泊していたドイツ船のヘスペリア号が、我が国からの検疫(けんえき)命令を無視して横浜入港を強行したことで、結果として関東地方でもコレラによる被害が拡大し、全国で10万人を超える多数の死者を出してしまったというヘスペリア号事件が起きました。
こうした流れを受けて、寺島は外務卿を辞任し、条約改正に向けての交渉も失敗に終わりました。そして、ハートレー事件やヘスペリア号事件のような出来事を繰(く)り返させないためにも、政府は領事裁判権の撤廃を優先して交渉を続けることになりました。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
世論に関しては、何か直ぐに手柄を立てないと
認めて貰えない風潮が有りますよね。
今でも何ら変わらないですが・・
失敗があったりすると、余計な事をするからだと
言う方もいらっしゃいますが、失敗をした後の
対応が成功すれば、それは新たな進歩と認められるべきものではないかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
表舞台での成功には、陰での数えきれない失敗がつきものです。
明治政府も様々な失敗を重ねながら、条約改正を成功へと導くことになります。
世論に関しては、何か直ぐに手柄を立てないと
認めて貰えない風潮が有りますよね。
今でも何ら変わらないですが・・
失敗があったりすると、余計な事をするからだと
言う方もいらっしゃいますが、失敗をした後の
対応が成功すれば、それは新たな進歩と認められるべきものではないかと思います。
表舞台での成功には、陰での数えきれない失敗がつきものです。
明治政府も様々な失敗を重ねながら、条約改正を成功へと導くことになります。