文禄(ぶんろく)元(1592)年に始まった1回目の朝鮮出兵たる文禄の役(えき)に際し、官兵衛も軍監(ぐんかん)として渡海(とかい)しましたが、小西行長(こにしゆきなが)や石田三成(いしだみつなり)らとの確執(かくしつ)もあって思うような采配(さいはい)が取れず、文禄2(1593)年の帰国後に秀吉の怒りを買いましたが、官兵衛が出家したこともあって許されました。なお、出家の際に官兵衛は「如水円清(じょすいえんせい)」と号しています。
官兵衛の帰国後、朝鮮との間に一度は和議が成立しましたが、その後こじれたことで、慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉はふたたび朝鮮を攻めました。これを慶長の役と言います。
慶長の役において官兵衛はふたたび渡海し、釜山(プサン)の北に位置する梁山(ヤンサン)城を少数の兵で守りきるなど軍功を挙げたものの、官兵衛が帰国した後に秀吉が慶長3(1598)年に死去したのを理由に、日本軍は朝鮮から撤退しました。
秀吉の死によって、我が国で再び不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)い始めていましたが、時代の流れを読んでいた官兵衛は、徳川家康(とくがわいえやす)に味方する道を選びました。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さすがの官兵衛も、仲違いする関係の
仲裁もままならないときがあるはずですよね。
秀吉の怒りを買ったとありますが、
それだけ秀吉は官兵衛に対して、多大な信頼を寄せると共に
過大な期待もしていたのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵に関しては、若い頃から秀吉を支えてきた武将が多かったため、官兵衛の言うことを聞かなかった、という側面があるようです。
秀吉もそれが分かっていたので、官兵衛を叱責するだけで済ませたのかもしれません。
さすがの官兵衛も、仲違いする関係の
仲裁もままならないときがあるはずですよね。
秀吉の怒りを買ったとありますが、
それだけ秀吉は官兵衛に対して、多大な信頼を寄せると共に
過大な期待もしていたのでしょうね。
秀吉もそれが分かっていたので、官兵衛を叱責するだけで済ませたのかもしれません。