この後、天正15(1587)年の九州平定によって豊前国(ぶぜんのくに)12万石の大名となった官兵衛は、新たな居城として中津城(なかつじょう)の築城に取りかかりましたが、間もなく領国で起きた一揆(いっき)を無事に鎮圧(ちんあつ)すると、天正17(1589)年には子の長政に44歳で家督を譲(ゆず)りました。
ただし、家督を譲ったといっても隠居(いんきょ)したわけではなく、翌天正18(1590)年の小田原攻(おだわらぜ)めの際には、当主の北条氏直(ほうじょううじなお)を官兵衛自らが説得し、開城へと導きました。
官兵衛の働きによって北条氏は事実上滅亡し、同天正18年に豊臣秀吉はついに自らの手で天下統一を果たすこととなったのです。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーちから黒田裕樹さんへお返事です^^ こんにちは!
人生50年と言われていた時代で
今でこそ44歳などはまだまだ若い世代だと言われていますが、当時は相当晩年になってから家督を譲ったことなのではないでしょうか?
それだけ官兵衛は命燃え尽きるまで、自分を必要としてくれる人物がいる限り、第一線で活躍していこうという思いが強かったのでしょうかね^^
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の44歳は高齢の部類に入りますからね。
秀吉は確かに天下を統一しましたが、この後も大忙しでしたから、まだまだ官兵衛の力を必要としたのでしょうね。
宇都宮氏のだまし討ち
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛は、大好きな武将ですし、
仁徳もある武将だと思います。
ただ、九州を統治する時に行った
宇都宮鎮房とその一族へのだまし討ちだけは
どうしても、納得できません。(人生最大の汚点)
調略で、宇都宮鎮房とその一族を救うことも出来たと思います。
肥後の統治に失敗して、切腹させられた佐々成政を考えると、黒田官兵衛で、あっても非常手段を使わないと治めるのが、難治の土地だったということでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、九州平定のためには非情な手段が必要だったのかもしれませんね。
人生50年と言われていた時代で
今でこそ44歳などはまだまだ若い世代だと言われていますが、当時は相当晩年になってから家督を譲ったことなのではないでしょうか?
それだけ官兵衛は命燃え尽きるまで、自分を必要としてくれる人物がいる限り、第一線で活躍していこうという思いが強かったのでしょうかね^^
秀吉は確かに天下を統一しましたが、この後も大忙しでしたから、まだまだ官兵衛の力を必要としたのでしょうね。
青田です。
黒田官兵衛は、大好きな武将ですし、
仁徳もある武将だと思います。
ただ、九州を統治する時に行った
宇都宮鎮房とその一族へのだまし討ちだけは
どうしても、納得できません。(人生最大の汚点)
調略で、宇都宮鎮房とその一族を救うことも出来たと思います。
肥後の統治に失敗して、切腹させられた佐々成政を考えると、黒田官兵衛で、あっても非常手段を使わないと治めるのが、難治の土地だったということでしょうか。