官兵衛が救出された後、翌天正8(1580)年1月には三木城が落城し、信長は播磨平定に向けて大きく前進しました。また、牢内の世話役だった加藤重徳の次男が官兵衛の養子となって黒田一成(くろだかずしげ)と名乗り、後に黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)の一人として活躍することになりました。
また、起請文を書いた一人である母里友信(もりとものぶ)も黒田二十四騎の一人となったほか、民謡「黒田節」のモデルとされるなど、現代でもその名を残しています。
さらには信長を裏切って出奔(しゅっぽん)した主君の小寺氏に対しても、後に子の氏職(うじもと)を客分として迎えるなど厚遇しました。
有岡城での幽閉(ゆうへい)は官兵衛にとって痛恨の出来事ではありましたが、同時に家臣の鉄の団結力など、通常では得難(えがた)い経験を積むことになりました。小寺氏の事実上の滅亡で黒田の姓に復した官兵衛は、その後も秀吉配下として信長の天下統一に貢献することとなったのですが、思わぬ運命が彼を待ち受けていました。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
一度裏切られた人物の子孫といえども
通常でしたら、厚遇などあり得ない事なのでしょうけれど、そこを許す事が出きるということは
度量の広さの何ものでもない気がしますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
官兵衛の度量の広さと優しさが、身内や家臣以外の様々な人々の心を動かしたのだと思えます。
一度裏切られた人物の子孫といえども
通常でしたら、厚遇などあり得ない事なのでしょうけれど、そこを許す事が出きるということは
度量の広さの何ものでもない気がしますね。
官兵衛の度量の広さと優しさが、身内や家臣以外の様々な人々の心を動かしたのだと思えます。