その後、官兵衛は永禄10(1567)年に父の職隆(もとたか)から22歳で家督(かとく)を継いで姫路城主になると、主君である政職の縁戚(えんせき)にあたる光(てる、または「みつ」)と結婚し、翌永禄11(1568)年には嫡男の松寿丸(しょうじゅまる)が生まれました。後の長政です。
なお、当時の戦国武将は、子孫を残す名目もあって側室を何人も持つのが慣例でしたが、官兵衛は生涯側室を持たず、光を愛し続けました。官兵衛によるこうした「愛情」は、後に大きな力を生み出すことになります。
その後、永禄12(1569)年に赤松政秀(あかまつまさひで)が3,000の兵力で姫路に攻め込んできましたが、官兵衛はわずか300の兵で奇襲攻撃をかけてこれを撃退(げきたい)するなど、大いに名を挙げました。なお、この戦(いくさ)は青山(あおやま)・土器山(かわらけやま)の戦いと呼ばれています。
しかし、長かった戦国の世も、この頃までには一人の英雄の誕生によって、確実に変化を見せ始めており、それは、官兵衛が本拠とする姫路を含む播磨においても例外ではありませんでした。
※下記の映像は6月9日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに子孫を絶やす訳にはいかない理由で
側室を抱えるという風習は、必要なのかも
知れませんが、生涯、ただ一人だけに愛情を注ぐという事で齎される財産も大きいのでしょうね。
それは何なのかは気になりますが^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一人の女性を生涯愛し続けたのは、紛れもなく官兵衛の愛情の強さといえるでしょう。
そして、その愛情が妻だけでなく、もっと幅広い人脈に広がれば…。
確かに子孫を絶やす訳にはいかない理由で
側室を抱えるという風習は、必要なのかも
知れませんが、生涯、ただ一人だけに愛情を注ぐという事で齎される財産も大きいのでしょうね。
それは何なのかは気になりますが^^
そして、その愛情が妻だけでなく、もっと幅広い人脈に広がれば…。