「武骨者(ぶこつもの)の自分には到底(とうてい)務まらない」と貫太郎は辞退しましたが、昭和天皇ご自身のご希望もあり、最終的に彼は侍従長への就任を承諾しました。侍従長は軍籍(ぐんせき)が予備役になるだけでなく、前職の軍令部長に比べれば宮中席次(きゅうちゅうせきじ)のランクが30位も下がりましたが、それらをすべて承知のうえで彼は侍従長の職を引き受けたのです。
昭和4(1929)年1月に侍従長になった貫太郎は、いつしか「大侍従長」と呼ばれ、昭和天皇をはじめ周囲から厚い信任を受けることになりましたが、逆にこのことが彼を危険な目にあわせてしまうことになるのが、歴史の流れの恐るべき一面ではあります。
なお、貫太郎が侍従長に就任した同じ昭和4年の8月に、一人の男が陸軍の侍従武官として着任しました。苦労人として知られ、人望も厚かったその人物の名を阿南惟幾(あなみこれちか)といい、阿南自身も貫太郎の懐(ふところ)の深い人格に尊敬の念を抱(いだ)くようになりました。
この時期に貫太郎と阿南の両人が昭和天皇に仕えたという事実が、その後の我が国の運命を大きく動かすことになるのです。





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ぴーち こんにちは!
確かに階級も名誉な事ですが、
天皇ご自身から慕われ、側近としてお仕事が
出来る事の方が、はるかに名誉な事であると
思いますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり名誉なことですし、格が低くなるからと言って断るような狭い料簡を、鈴木貫太郎自身が持っていなかったことも大きいと思われますね。
確かに階級も名誉な事ですが、
天皇ご自身から慕われ、側近としてお仕事が
出来る事の方が、はるかに名誉な事であると
思いますね!