1570年、信長が朝倉義景を攻めるために金ヶ崎(かねがさき、現在の福井県敦賀市)まで攻め込んだ際に、妹の婿(むこ)である近江国の浅井長政(あざいながまさ)が信長を裏切って攻め寄せました。このままでは挟み撃ちにあうところでしたが、信長は機転を利かせてわずかな手勢で京都まで一気に逃げ切り、九死に一生を得たことがありました。
通常であればそれまでの軍功を惜しんで立ち往生するところを、自分の生命の方が大事と冷静に判断した信長の的確な判断でした。後に天下を取った豊臣秀吉が、信長を評して「兵5,000人のうち4,900人が戦死しても、残りの100人の中に信長公はきっとおられる」と語っています。
このような「逃げ上手」であるうえに、諜報(ちょうほう)、いわゆるスパイの能力も抜きん出ていた信長ですから、自己の暗殺計画が立てられていれば、必ず事前に察知して、逃げおおせた可能性が極めて高いのです。
また、本能寺の変が起きたのは旧暦の6月1日の深夜でした。今私たちが使っている新暦とは違い、旧暦の1日は必ず新月(しんげつ)であり、月の出ない完全な闇夜(やみよ)でした。信長の暗殺を事前に計画しておらず、光秀自身が単独で行動し、さらに闇夜であったがゆえに、光秀は信長に気づかれず、また逃げられることもなく討ち果たすことが可能だったのです。
光秀は信長を討つことは出来ましたが、単独で行動に及んだゆえに、結局は光秀に味方をしようとする武将は現れませんでした。そのうえ、中国地方から常識で考えられないスピードで「大返し」(おおがえし)してきた秀吉軍と、京都の山崎(やまざき)で戦うことになりました。
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