西郷の怒りは、自身がもはや私学校の生徒たちの勢いを止められないという悲しみでもありました。事実、政府が放(はな)った密偵の一人が逮捕(たいほ)されて「西郷の刺殺(しさつ)計画」を自供(じきょう)したこともあって、決起(けっき)以外に手段がないところまで追いつめられてしまったのです。
西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに明治10年2月に政府に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)しました。世にいう「西南戦争」のはじまりです。ただし、西南戦争自体はもちろん単純な「不平士族の反乱」だったのではなく、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末(そまつ)に扱(あつか)おうとした当時の明治政府への日本精神からの異議申し立てという面も含まれていました(これに関しては後で詳しく紹介します)。
ちなみに有名なハリウッド映画「ラストサムライ」は、このような面までアメリカが日本を研究し尽くしていることによって制作することができたともいえます。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ハリウッドが日本の映画を作る場合は、わが国よりもよっぽど時代考証などがしっかりしていることが多いです。
世の中の雰囲気に流されないという映画人の矜持がそうさせているのかもしれませんが、ラストサムライなどは二重の意味でおすすめと言えるかもしれませんね。
避けられない宿命
- 黒田先生
青田です。
明治2年に亡くなった大村益次郎は、
必ず、薩摩で反乱が起こると、
武器を大阪に移していました。
それは、その当時の薩摩武士(薩摩隼人)の気風を
大村益次郎は、わかっていたからだと思います。
ただ、この時の大村益次郎も、西郷隆盛がその反乱の旗頭になるとは、予想できなかったと思います。
そう考えると、薩摩で反乱が起きるのは仕方ないとしても西郷隆盛は、日本のためにも旗頭になって欲しくなかったです。
それは、西郷隆盛だけが優秀というだけでなく、
村田新八のように、これからの日本に必要な人材が西郷隆盛の周りに多くいたからです。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに宿命だったのかもしれませんね。
あたら有益な人災を多く失ったことは残念の一言ではありますが、どうしようもなかったとも言えそうです。
鹿児島のタク ハリウッド映画「ラストサムライ」の主人公(渡辺謙さん)は、明らかに西郷隆盛だと感じました。
それに対して、徴兵令による近代軍隊を作ろうとしていたのは、大村益次郎ですね。
それにしても「ラストサムライ」は、私の中でもとても印象に残っている映画です。
西郷ドンがどのような考えで、西南戦争を起こしたか(担がれたか)難しいところですが、鹿児島には勝海舟による次のような和歌の碑文が私の知るところ2か所にあります。
「濡れぎぬを 干そうともせず 子どもらが なすがままに 果てし君かな」…この場合の「子どもら」がには、桐野利秋らが含まれていると考えてよいのかはよく分かりませんが、薩摩士族(若者)…私学校の生徒たちを表していると思います。
それにしても、勝海舟という人物は、西郷ドンのよき理解者だったと言えると思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 「ラストサムライ」は素晴らしい映画だと思います。なぜあれだけの作品を我が国が作れないのでしょうか。
勝海舟は西郷さんとお互いが国家のために命がけで腹を割って話した人物同士ですから、理解できるところも大きかったと思われます。
世の中の雰囲気に流されないという映画人の矜持がそうさせているのかもしれませんが、ラストサムライなどは二重の意味でおすすめと言えるかもしれませんね。
青田です。
明治2年に亡くなった大村益次郎は、
必ず、薩摩で反乱が起こると、
武器を大阪に移していました。
それは、その当時の薩摩武士(薩摩隼人)の気風を
大村益次郎は、わかっていたからだと思います。
ただ、この時の大村益次郎も、西郷隆盛がその反乱の旗頭になるとは、予想できなかったと思います。
そう考えると、薩摩で反乱が起きるのは仕方ないとしても西郷隆盛は、日本のためにも旗頭になって欲しくなかったです。
それは、西郷隆盛だけが優秀というだけでなく、
村田新八のように、これからの日本に必要な人材が西郷隆盛の周りに多くいたからです。
あたら有益な人災を多く失ったことは残念の一言ではありますが、どうしようもなかったとも言えそうです。
それに対して、徴兵令による近代軍隊を作ろうとしていたのは、大村益次郎ですね。
それにしても「ラストサムライ」は、私の中でもとても印象に残っている映画です。
西郷ドンがどのような考えで、西南戦争を起こしたか(担がれたか)難しいところですが、鹿児島には勝海舟による次のような和歌の碑文が私の知るところ2か所にあります。
「濡れぎぬを 干そうともせず 子どもらが なすがままに 果てし君かな」…この場合の「子どもら」がには、桐野利秋らが含まれていると考えてよいのかはよく分かりませんが、薩摩士族(若者)…私学校の生徒たちを表していると思います。
それにしても、勝海舟という人物は、西郷ドンのよき理解者だったと言えると思います。
勝海舟は西郷さんとお互いが国家のために命がけで腹を割って話した人物同士ですから、理解できるところも大きかったと思われます。