
当時の我が国は、江戸幕府が押し付けられた不平等条約の改正とともに、欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということも重要な外交問題でしたが、そんな我が国の安全保障(あんぜんほしょう)のカギを握っていたのが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)でした。
そこで、明治政府は当時の李氏朝鮮(りしちょうせん)に近代化を進めるように働きかけました。朝鮮半島が開国して近代化し、確固(かっこ)たる独立国が誕生すれば、朝鮮の人々のためになると同時に我が国の安全度も増すと判断したからです。
政府は早速(さっそく)、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、国王は文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇」や「勅(ちょく)」の文字が含(ふく)まれていたからです。当時の朝鮮は中国の清(しん)の属国(ぞっこく)であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清と同様に支配下に置こうとしている」と判断したのでした。
もちろん、我が国にそんな意図(いと)はありません。我が国が天皇中心の新たな中央集権国家に生まれ変わったという意味で、形式的に「皇」や「勅」の字を使用したに過ぎなかったのです。我が国は朝鮮に対して理解を求め、新たに「皇」や「勅」の字を使用しない外交文書を送るなど懸命(けんめい)の努力を重ねましたが、態度(たいど)を硬化(こうか)させた朝鮮は首を縦(たて)に振(ふ)りませんでした。
このように朝鮮が排他的(はいたてき)な外交態度を示していた当時、我が国では先述(せんじゅつ)のとおり政府首脳(しゅのう)が海外へ視察中(しさつちゅう)でしたが、やがて留守政府の中から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。





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- 黒田先生
青田です。
私が学んだ高校の歴史では、日本政府は、強硬すぎると教わりました。
但し、これには、大きな見落としがあると思います。
島津斉彬がロシアの南下政策にたいして、アジア(まずは、韓国)
と提携して、ロシアの南下政策に備えようと考えていました。
西郷自身もそれを熟知していました。
現代と違い日本も韓国も国力が小さく、ロシアがとてつもなく巨大でした。
その前提で、考えないと当時の留守政府の強硬論は、理解で無いと思います。
ぴーち こんばんは!
外国との交渉がいかに難しいかが判りました。
日本人には通用する言葉使いでも、外国には
微妙なニュアンスが伝わらなかったり、誤解を招いてしまう場合も。
外国との交渉は慎重に慎重を極めないと、
誤解を与えたまま、最悪、国同士の争いにも発展にもなり兼ねませんね。
信頼関係をじっくり深める事が出来れば良いのでしょうけれど。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国内の歴史だけで完結しようといて、世界の歴史の大きな流れを見ていないからそのような誤解が生じるのです。もっとも、わざとやっているのかもしれませんが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外国との交渉はお互いの国柄が出ますから確かに難しいですね。
誤解を招かないようにすることも重要ですが、誤解と分かった際に態度を改める柔軟さも求められると思います。
東夷という考え方
- 黒田先生
青田です。
シナ(この当時は、清)では、日本のことを
東夷と呼んで、
東の僻地の野蛮人という考えがあり、
韓国もその考えを踏襲していたようですね。
そう韓国が、思うのは、勝手ですが
この当時の国際状況を宗主国の清の状況を観て
(アヘン戦争)
危機感を持たなかったのが不思議です。
逆に日本のほうが、アヘン戦争に負けた清を観て、危機感を持っていた日本人のほうが、
国際感覚が高かったようですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、過去にとらわれすぎて当時の国際感覚がマヒしていた感がありますね。
中華思想というのはある意味恐ろしいものなのかもしれません。
青田です。
私が学んだ高校の歴史では、日本政府は、強硬すぎると教わりました。
但し、これには、大きな見落としがあると思います。
島津斉彬がロシアの南下政策にたいして、アジア(まずは、韓国)
と提携して、ロシアの南下政策に備えようと考えていました。
西郷自身もそれを熟知していました。
現代と違い日本も韓国も国力が小さく、ロシアがとてつもなく巨大でした。
その前提で、考えないと当時の留守政府の強硬論は、理解で無いと思います。
外国との交渉がいかに難しいかが判りました。
日本人には通用する言葉使いでも、外国には
微妙なニュアンスが伝わらなかったり、誤解を招いてしまう場合も。
外国との交渉は慎重に慎重を極めないと、
誤解を与えたまま、最悪、国同士の争いにも発展にもなり兼ねませんね。
信頼関係をじっくり深める事が出来れば良いのでしょうけれど。
国内の歴史だけで完結しようといて、世界の歴史の大きな流れを見ていないからそのような誤解が生じるのです。もっとも、わざとやっているのかもしれませんが…。
誤解を招かないようにすることも重要ですが、誤解と分かった際に態度を改める柔軟さも求められると思います。
青田です。
シナ(この当時は、清)では、日本のことを
東夷と呼んで、
東の僻地の野蛮人という考えがあり、
韓国もその考えを踏襲していたようですね。
そう韓国が、思うのは、勝手ですが
この当時の国際状況を宗主国の清の状況を観て
(アヘン戦争)
危機感を持たなかったのが不思議です。
逆に日本のほうが、アヘン戦争に負けた清を観て、危機感を持っていた日本人のほうが、
国際感覚が高かったようですね。
中華思想というのはある意味恐ろしいものなのかもしれません。