西郷は大久保や木戸孝允らと協力して、懸案(けんあん)だった廃藩置県(はいはんちけん)を断行(だんこう)しました。廃藩置県によって各藩主が持っていた領地への支配権が没収(ぼっしゅう)されるとともに、多くの士族(しぞく)が失業するという荒療治(あらりょうじ)でしたが、西郷は薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(ごしんぺい、政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、これをわずか一日で実現してしまったのです。
通常ならば激(はげ)しい軍事的抵抗があってもおかしくなかったはずでしたが、廃藩置県は目立った混乱もなく平和的に実現し、政府による中央集権体制(ちゅうおうしゅうけんたいせい)が名実ともに整(ととの)うことになりましたが、こうした劇的(げきてき)な効果をもたらしたのは約1万人の御親兵という抑止力(よくしりょく)もあったでしょうが、指揮をとった西郷の人柄(ひとがら)に周囲(しゅうい)が納得(なっとく)したという心理的影響も大きかったのではないでしょうか。
廃藩置県の実施後(じっしご)、大久保や木戸、岩倉らは条約改正を目指(めざ)して欧米へ向かいましたが、我が国に残った西郷らは留守政府(るすせいふ)として、身分に関係なく満20歳に達した成年男子全員が3年間の兵役義務(へいえきぎむ)を負うという徴兵令(ちょうへいれい)のほか、学制(がくせい)の発布(はっぷ)や太陽暦の採用、国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)の公布(こうふ)、キリスト教の解禁(かいきん)、地租改正(ちそかいせい)など矢継(やつ)ぎ早(ばや)に次々と改革を実行しました。
後に福沢諭吉(ふくざわゆきち)が「西郷の施政(しせい)の間は言論も自由で一揆(いっき)や反政府運動も減っていた」と高く評価(ひょうか)した留守政府の政策(せいさく)ぶりでしたが、外交問題が発生したことで西郷は洋行(ようこう)した大久保らと激しく対立することになってしまうのです。





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ぴーち こんにちは!
わずか一日とは、素晴らしいですね!
やはり最終的に人を動かせるものは、
お金ではなく、人物そのものなのだという事なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人間は感情で動く以上は精神面での充実を望みます。その意味でも西郷さんという「心の支え」の存在は大きかったと思われます。
西郷内閣のあげた成果!
鹿児島のタク 岩倉具視を団長とする「遣欧使節団」が約2年間ほど海外へ行っている間は、事実上の「西郷内閣」と書いてある著作も多くありますね。
この2年間は、本当に多くの、後の近代国家へ生まれ変わる事業を成し遂げているのは、間違いないでしょうね。
西郷ドン自身は、具体的な明治国家の青写真をどのくらい持っていたのかは未知数ですが…。
それにしても、西郷ドンにとっては「廃藩置県」は、苦しいものがあったと思われます。主筋の島津家(藩)を「取り潰す…これは言い過ぎか」…ことになりますから…。でも、これをやらないと近代国家は生まれてこない。…西郷ドン、国父と言われた島津久光とは、もともとうまく関係がいっていませんが、辛い部分もあったのではと想像します。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 西郷さんは軍事だけでなく内政面でも素晴らしい成果を挙げていることは意外にも知られていません。
廃藩置県は武士の失業を意味していましたから相当辛かったと思います。とはいえ、本文にもあるように西郷さんだからこそ成し得たことだったでしょう。
わずか一日とは、素晴らしいですね!
やはり最終的に人を動かせるものは、
お金ではなく、人物そのものなのだという事なのでしょうね。
この2年間は、本当に多くの、後の近代国家へ生まれ変わる事業を成し遂げているのは、間違いないでしょうね。
西郷ドン自身は、具体的な明治国家の青写真をどのくらい持っていたのかは未知数ですが…。
それにしても、西郷ドンにとっては「廃藩置県」は、苦しいものがあったと思われます。主筋の島津家(藩)を「取り潰す…これは言い過ぎか」…ことになりますから…。でも、これをやらないと近代国家は生まれてこない。…西郷ドン、国父と言われた島津久光とは、もともとうまく関係がいっていませんが、辛い部分もあったのではと想像します。
廃藩置県は武士の失業を意味していましたから相当辛かったと思います。とはいえ、本文にもあるように西郷さんだからこそ成し得たことだったでしょう。