かつて幕府のもとで京都守護職(きょうとしゅごしょく)を務めた会津藩(あいづはん)に対して、長州藩が当時の恨(うら)みを晴らすべく攻め込(こ)んだのです。後に会津戦争と呼ばれた戦いにおいて会津藩は徹底的に攻撃を受け、多くの血を流した末に降伏しました。
一方、江戸市中の警備を担当(たんとう)した際に薩摩藩邸を焼討ちした庄内藩も果敢(かかん)に戦い続けましたが、会津藩の降伏を知ると抵抗(ていこう)をあきらめました。厳しい処分が下ることを見越(みこ)した庄内藩は藩主や重臣が白装束(しろしょうぞく)に身を包んで切腹(せっぷく)を覚悟していましたが、降伏式に臨(のぞ)んだ西郷はその様子を見て真っ先に叫(さけ)びました。
「切腹して詫(わ)びるなどとんでもないことだ!」
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ぴーち こんにちは!
西郷さん、嘗てご自分が入水自殺を図ったことに対して、相当な反省があったのでしょうか・・。
仰るとおり、切腹して事なきを得ようとする
考え方は浅はかだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷さんご自身の貴重な体験が今回の大きな流れにつながっていると思われますが、彼の人生経験が更なる「武士道精神」をもたらせたとも考えられますね。
詳しくは今後の更新をご覧ください。
幕末最強の庄内藩
- 黒田先生
青田です。
庄内藩は、徳川四天王の一人、酒井忠次を始祖とする藩で、徳川への忠誠心が非常に高い藩です。
さらに
庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしただけではなく、
最後まで、連戦連勝で、勝つ続けた
幕末最強の組織です。
官軍の立場からすると
切腹は、当たり前ですよね。
この西郷の言葉を聞いて、
白装束の藩主以下は、感涙のあまり号涙しました。
西郷隆盛の戦いは、非常でも、処分は寛大な姿勢では、カッコ良さを感じてしまいますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷隆盛の花も実もある裁きぶりはかっこよすぎますよね。
寛大な処分の背景には何があるのでしょうか。
鹿児島県人への恨み…!?
鹿児島のタク 黒田先生へ
私は鹿児島県人ですが、以前会津若松市に旅行した時、ハイヤーの運転手さんが「福島県人は今でも鹿児島県人を恨んでいます。」と、隣の旅行者に説明していました。
それを言うなら、「山口県人」と言ってくれよ。…とも思いましたが、確かに会津攻めには、薩摩藩士も参加しています…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 そうなんですか。鹿児島からすると確かに納得できない話ですよね。
積年の恨みというのは難しいものです。
西郷さん、嘗てご自分が入水自殺を図ったことに対して、相当な反省があったのでしょうか・・。
仰るとおり、切腹して事なきを得ようとする
考え方は浅はかだと思いますね。
詳しくは今後の更新をご覧ください。
青田です。
庄内藩は、徳川四天王の一人、酒井忠次を始祖とする藩で、徳川への忠誠心が非常に高い藩です。
さらに
庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしただけではなく、
最後まで、連戦連勝で、勝つ続けた
幕末最強の組織です。
官軍の立場からすると
切腹は、当たり前ですよね。
この西郷の言葉を聞いて、
白装束の藩主以下は、感涙のあまり号涙しました。
西郷隆盛の戦いは、非常でも、処分は寛大な姿勢では、カッコ良さを感じてしまいますね。
寛大な処分の背景には何があるのでしょうか。
私は鹿児島県人ですが、以前会津若松市に旅行した時、ハイヤーの運転手さんが「福島県人は今でも鹿児島県人を恨んでいます。」と、隣の旅行者に説明していました。
それを言うなら、「山口県人」と言ってくれよ。…とも思いましたが、確かに会津攻めには、薩摩藩士も参加しています…。
積年の恨みというのは難しいものです。