休憩時、岩倉は外で警備(けいび)をしていた西郷に意見を求めると、西郷は「短刀(たんとう)一本あれば用は足(た)りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟(かくご)をもてば道は開けると岩倉を勇気づけたのでした。
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届(とど)くと、土佐藩に傷(きず)をつけてまで幕府に肩入(かたい)れすることはないと判断した山内はその後沈黙(ちんもく)し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。結局慶喜は将軍のみならず内大臣(ないだいじん)の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。
しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた幕府が巻(ま)き返しを図り、小御所会議の内容が骨抜(ほねぬ)きにされ、慶喜の実権が温存(おんぞん)されようとしたため、西郷は最後の手段として江戸の商家(しょうか)を薩摩藩という身分を隠(かく)さずに片(かた)っ端(ぱし)から襲(おそ)い、幕府を挑発(ちょうはつ)して慶喜の名誉(めいよ)が回復する前に戊辰戦争(ぼしんせんそう)を起こさせることに成功しました。
西郷によるなりふり構(かま)わぬ策士(さくし)ぶりが大きな歴史の流れを動かしたことになります。なお、この当時江戸市内の警備をしており、江戸の薩摩藩邸(さつまはんてい)を焼討(やきう)ちして戊辰戦争のきっかけをつくったのが酒井家(さかいけ)の庄内藩(しょうないはん)だったことが、後の西郷自身と庄内藩との運命を大きく変えることにつながりました。





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ぴーち こんにちは!
幕府も己の力を過信し過ぎた事が結果的に
自分の首を絞める結果となったのでしょうか。
驕れるもの久しからず。
幕府も思い上がった途端に、足を掬われたとでも
言いましょうか。
「短刀一本・・・」
鹿児島のタク 「短刀一本あれば、済むこっじゃごわはんか!」(鹿児島弁)…この言葉は、歴史を大きく動かしたものだと私も思います。
江戸の街に火付けをし、薩摩藩邸に火をつけさせるとは、西郷ドン(らしからぬ?)策士ぶりですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに幕府は最後の詰めが甘かったですね。西郷の何でもありの精神が、長年政権を担当し続けた徳川家には及びもつかなかったのかもしれません。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷の並外れた胆力が歴史を大きく動かしたと言えそうです。
西郷の策士ぶりは孫子の兵法を彷彿とさせますが、それだけではないところも西郷さんの魅力ですからね。この件に関しては後日改めて紹介します。
幕府も己の力を過信し過ぎた事が結果的に
自分の首を絞める結果となったのでしょうか。
驕れるもの久しからず。
幕府も思い上がった途端に、足を掬われたとでも
言いましょうか。
江戸の街に火付けをし、薩摩藩邸に火をつけさせるとは、西郷ドン(らしからぬ?)策士ぶりですね。
西郷の策士ぶりは孫子の兵法を彷彿とさせますが、それだけではないところも西郷さんの魅力ですからね。この件に関しては後日改めて紹介します。