しかし、こうした事態を予想していた慶喜が先手を打つ形で同じ10月14日に朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を行い、政権を朝廷に返上(へんじょう)しました。
幕府による大政奉還は、薩長らの討幕の密勅がその根拠(こんきょ)を失(うしな)っただけでなく、徳川家が来るべき新政権の中心的な存在(そんざい)として政治の実権を握り続けるという可能性も秘めていました。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がないと憤(いきどお)った西郷らの薩長両藩や公家の岩倉具視(いわくらともみ)らの討幕派は、同年12月9日に武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)といいます。





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ぴーち こんばんは!
幕末の頃のこういうお話を伺っていると、
幕府側と倒幕派のどちらも後には引けない
必死さが伝わって来ますね。
これまで15代も継続された幕府の歴史を自分の代で失ってはいけない慶喜の気持ちも
判りますし、
死に物狂いで挑んできた倒幕という目標を
果たせない屈辱を味わいたくはないという思いの
ぶつかり合い。
このシーソーゲームの様な展開はいつまで
続くのでしょうか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、幕府と討幕派とのまさに丁々発止のやり取りが続いていました。
この争いは王政復古の大号令当日の夜にも続くことになります…。
徳川慶喜という人物
鹿児島のタク 15代将軍となった徳川慶喜という人物は、なかなかの人物みたいですね。「大政奉還」なんて…じゃあ、朝廷が実際の政治をやることなんてできないと判断していたのでしょうか。
土佐の藩主!?…山内容堂公などの進言があったような本を読んだことがあります。
それにしても、討幕の密勅は本物の写真を何度も見たことがあります。薩摩藩に対しては、最高実力者の島津久光と藩主:島津忠義宛てになっていますが、本文と差出人の書体が一緒ですし、2人の差出人の書体が全く同じですので…正規のルートで奉られた“密勅(勅命)”ではないという話もよく出てきますが、どんなものでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大政奉還によって幕府は存在しなくなりますから、討幕の密勅はその意味を失います。こういう理屈を慶喜自身が分かっていたでしょうし、徳川家の立場を残す意味でも大政奉還に踏み切ったのでしょう。
山内容堂の助言という説もありますが、慶喜の優秀さあってこそだと思います。
討幕の密勅に関しては、どのような背景があったかは分かりませんね。仰るような裏事情があったのかもしれません。
幕末の頃のこういうお話を伺っていると、
幕府側と倒幕派のどちらも後には引けない
必死さが伝わって来ますね。
これまで15代も継続された幕府の歴史を自分の代で失ってはいけない慶喜の気持ちも
判りますし、
死に物狂いで挑んできた倒幕という目標を
果たせない屈辱を味わいたくはないという思いの
ぶつかり合い。
このシーソーゲームの様な展開はいつまで
続くのでしょうか・・。
この争いは王政復古の大号令当日の夜にも続くことになります…。
土佐の藩主!?…山内容堂公などの進言があったような本を読んだことがあります。
それにしても、討幕の密勅は本物の写真を何度も見たことがあります。薩摩藩に対しては、最高実力者の島津久光と藩主:島津忠義宛てになっていますが、本文と差出人の書体が一緒ですし、2人の差出人の書体が全く同じですので…正規のルートで奉られた“密勅(勅命)”ではないという話もよく出てきますが、どんなものでしょうか。
山内容堂の助言という説もありますが、慶喜の優秀さあってこそだと思います。
討幕の密勅に関しては、どのような背景があったかは分かりませんね。仰るような裏事情があったのかもしれません。