そんな薩長の動きを知らない幕府は同年6月に第二次長州征伐を実行しましたが、薩摩藩が出兵を拒否(きょひ)するなど諸藩の集まりは悪く、幕府の士気もふるわなかたことから不利な戦況となり、大坂城(おおさかじょう)へ出陣(しゅつじん)していた14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が7月に21歳の若さで急死すると、それを口実(こうじつ)に戦闘(せんとう)を中止しました。
第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成り立っていた幕藩体制(ばくはんたいせい)の崩壊(ほうかい)を意味しており、幕府の威信(いしん)は文字どおり地に堕(お)ちてしまいましたが、そんな幕府に追い打ちをかけるように年末に大きな不幸が起きてしまいました。
孝明天皇(こうめいてんのう)が37歳の若さで崩御(ほうぎょ)されてしまわれたのです。孝明天皇は攘夷のお考えが強かったものの、討幕を好まれずに公武合体(こうぶがったい)のお立場であっただけに、幕府にとっては大きな痛手(いたで)となってしまったのでした。
なお、孝明天皇の皇子(おうじ)でまだお若かった明治天皇(めいじてんのう)が122代天皇として即位(そくい)されたほか、幕府の15代将軍として一橋家(ひとつばしけ)で水戸藩出身の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が就任(しゅうにん)しました。





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ぴーち おはようございます!
今日のお話を伺っていると
改めて、血を絶えさせない努力は重要なことであったのだなと思いました。
現代の様に、食料も豊かではなく、医療の発達もなかった時代には、今なら軽く扱われる病でも、昔なら死に直結する事態に陥ったことでしょう。
そんな中、思いもよらずに若死にしてしまうケースも多く、そういう意味では、いざと言う時の為に
子孫をより多く残しておかなければいけないという
人間の苦肉の策というか、工夫というか(・_・;)
文化の発展や、国の豊かさの有無で、子供の数は決まるものだと、今更ながら思いました^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、医学の発達した現代とは違って当時は重い病で若くして世を去ることが多かったですからね。
「子孫を残すこと」がいかに重要であったかが、今回の事例を見てもよく分かります。
皮肉な巡り合わせ
- 黒田先生
青田です。
徳川慶喜は、島津斉彬が第14代将軍継承者として
推していました。(一橋派)
そして、その時、西郷隆盛は、お庭方として
同じように徳川慶喜を推す水戸藩の藤田東湖などと
人脈を創っていました。
さらに、徳川慶喜を第14代諸軍後見職にしたのは
薩摩藩の島津久光です。
いわば、徳川慶喜を第15代将軍にしたのは
薩摩藩とも言えます。
本当に皮肉な巡り合わせですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり皮肉ですね。
歴史上の出来事はこうした皮肉な展開が数多く存在しているようにも思えます。
今日のお話を伺っていると
改めて、血を絶えさせない努力は重要なことであったのだなと思いました。
現代の様に、食料も豊かではなく、医療の発達もなかった時代には、今なら軽く扱われる病でも、昔なら死に直結する事態に陥ったことでしょう。
そんな中、思いもよらずに若死にしてしまうケースも多く、そういう意味では、いざと言う時の為に
子孫をより多く残しておかなければいけないという
人間の苦肉の策というか、工夫というか(・_・;)
文化の発展や、国の豊かさの有無で、子供の数は決まるものだと、今更ながら思いました^_^;
「子孫を残すこと」がいかに重要であったかが、今回の事例を見てもよく分かります。
青田です。
徳川慶喜は、島津斉彬が第14代将軍継承者として
推していました。(一橋派)
そして、その時、西郷隆盛は、お庭方として
同じように徳川慶喜を推す水戸藩の藤田東湖などと
人脈を創っていました。
さらに、徳川慶喜を第14代諸軍後見職にしたのは
薩摩藩の島津久光です。
いわば、徳川慶喜を第15代将軍にしたのは
薩摩藩とも言えます。
本当に皮肉な巡り合わせですね。
歴史上の出来事はこうした皮肉な展開が数多く存在しているようにも思えます。