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その後も光秀は各地を転戦して武功を挙げ、前述の丹波国も領地に加えました。地図を見れば分かりますが、丹波国は京都のある山城国(やましろのくに、現在の京都府南部)の真上にあります。つまり、信長は全国統一に向けて戦略上重要な位置にある国を、光秀に一任しているのです。
また、信長は自分の家臣をいくつかの軍団に分け、それぞれに地方の攻略を命じていましたが(例えば羽柴秀吉は中国地方を担当)、光秀は「遊軍」(ゆうぐん、待機している軍勢のこと)として常に自分の手元においていました。
一見すると手持ち無沙汰(ぶさた)のように見えますが、有事の際には各武将の援護のために真っ先に駆けつけるわけですから、攻撃力も防御力も同時に備えていなければなりません。そのような難しい軍団を、信長は光秀を信頼して任せていたのです。
ここまで振り返ってみると、光秀が自分をそこまで信頼してくれている信長をどうして裏切ったのか、ますます理解できなくなりますよね。後世の人間が苦しまぎれに怨恨説を「つくりあげた」背景も、分からなくはありません。
しかし、人間というものはいくら物量や恩で満足していても、気持ちの中で何がしかの不信感を持ってしまうことがよくあります。それは光秀とて例外ではなく、信長の見せた行動の中から「このままでは信長様についていけない」と思わせる「何か」が芽生えた可能性が高いのです。
では光秀に不信感を与えた信長の行動とは何だったのでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




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