我々は、動機の見つからない不可解な事件が起こった際に、真っ先に「何か恨みがあったのか?」と考えがちです。そして、その動機がどうしても分からないときには、加害者が被害者に抱いたであろう「恨み」を勝手に想像したりすることはありませんか?
詳しくは後述しますが、信長と光秀との主従関係を冷静に見れば、光秀が信長に弓を引くなんて考えられません。にもかかわらず、その考えられないことが実際に起こってしまいました。だとすれば、信長は光秀に今まで受けた恩を仇で返すほどの恥辱(ちじょく)を与えていたのだ、と思いませんか?
すなわち、事件後に加害者の気持ちになって「逆算」したうえで「恨みがあったからこんな事件が起こったんだ」と自己満足して終わり、としてしまうことがよくあるのです。光秀の怨恨説も、こうした「逆算の論理」によって後世に考えられたものが大半であると推定されます。
しかし、光秀に諸説のような怨恨がなかったとしても、光秀が信長に対して「このままではついていけない」と考えてもおかしくない「流れ」があったことは私にも想像できます。この「流れ」をたどるために、光秀の半生を簡単に振り返ってみましょう。
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
kenちゃんマイド 歴史仲間3人を引き連れてはじめて講義を拝聴させていただきました。ありがとうございました。暑いなか、先生の大熱演、お疲れ様でした。仲間達もまずまず満足したと思います。明智光秀のその時の行動については、過去いろいろな説があり、これという決め手がみつかっていないのが現状です。新資料を見つけ出す事はたやすくありませんが、今後も研究してまたの機会に発表してください。期待しています。
ちゃてれ 第4回歴史講座お疲れ様でした。
動画観ました。
まさに熱演ですね、尊敬します!!
指し棒が素敵です(笑)
空茄 ちょっと太りました??
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 こちらこそ講座当日はお世話になりました。
皆様のご参加が、私をどれだけ勇気づけて下さったことでしょうか。お蔭様で自身でも納得のいく内容の講義ができたと自負しております。
今後もさらに研究を重ねて、いつの日か新たな内容で発表できればと思っております。
有難うございました。今後ともよろしくお願いいたします。
ちゃてれさんへ
黒田裕樹 塾の名物先生でもあるちゃてれさんにお褒めいただいて恐縮です(^^ゞ
指し棒は講義における私の身体の一部ですから(笑)。教師時代にも毎日使っていましたよ(^^♪
空茄さんへ
黒田裕樹 …鋭いご指摘ですね(^^ゞ
確かに増えてますかね(汗)。まぁ育ち盛りですから(笑)。
コメント有難うございますm(_ _)m
トレビアン・西です こんばんは。
光秀が信長を討った理由は諸説ありますが、結局何が真実か分りません。
しかし、数年前から考えていることがあります。
私は高野山で行をしました。
高野山に光秀の墓があります。
その墓石が割れるのです。新調しても割れるそうです。
私は光秀は高野山に恨みを持って死んだと思っています。
裏切られたのではないかと思っています。
実は、信長は高野山にも比叡山と同じように脅しをかけていました。
それ以来、高野山では信長に呪詛をかけていたとも言われています。
余談ですが、同じことを太平洋戦争の敵国にもしていたそうです。
信長が死んだ後、秀吉は高野山の中興の祖「木食上人」の弟子になりました。
そして高野山の復興のために多額の寄進をしています。
高野山における秀吉の影響がどれほどのものか、それは高野山真言宗の輪袈裟を見れば分ります。豊臣の家紋が入っています。
私は高野山が光秀をそそのかして信長を討たせた。
漁夫の利を得た秀吉が、高野山を加護したと思っています。これは私だけの意見ですが・・・。
トレビアン・西さんへ
黒田裕樹 こんばんは。長文の詳細なコメント有難うございます。
光秀の墓所の話は聞いたことがありますが、恨みを残して死んでいったということなのでしょうか…。
秀吉のお話ですが、私はむしろ秀吉は信長以上に高野山に強硬姿勢で臨んだと認識しております。
比叡山延暦寺の件を持ち出して、言うことを効かなければ同じように焼討ちするぞと脅して、高野山側が屈服し、その後は和解して仰るような影響を与えたということだと思います。
歴史は奥が深いですね。このあたりのお話も、いずれは取り上げていければと思います。
貴重なご意見に感謝いたします。
動画観ました。
まさに熱演ですね、尊敬します!!
指し棒が素敵です(笑)
皆様のご参加が、私をどれだけ勇気づけて下さったことでしょうか。お蔭様で自身でも納得のいく内容の講義ができたと自負しております。
今後もさらに研究を重ねて、いつの日か新たな内容で発表できればと思っております。
有難うございました。今後ともよろしくお願いいたします。
指し棒は講義における私の身体の一部ですから(笑)。教師時代にも毎日使っていましたよ(^^♪
確かに増えてますかね(汗)。まぁ育ち盛りですから(笑)。
コメント有難うございますm(_ _)m
光秀が信長を討った理由は諸説ありますが、結局何が真実か分りません。
しかし、数年前から考えていることがあります。
私は高野山で行をしました。
高野山に光秀の墓があります。
その墓石が割れるのです。新調しても割れるそうです。
私は光秀は高野山に恨みを持って死んだと思っています。
裏切られたのではないかと思っています。
実は、信長は高野山にも比叡山と同じように脅しをかけていました。
それ以来、高野山では信長に呪詛をかけていたとも言われています。
余談ですが、同じことを太平洋戦争の敵国にもしていたそうです。
信長が死んだ後、秀吉は高野山の中興の祖「木食上人」の弟子になりました。
そして高野山の復興のために多額の寄進をしています。
高野山における秀吉の影響がどれほどのものか、それは高野山真言宗の輪袈裟を見れば分ります。豊臣の家紋が入っています。
私は高野山が光秀をそそのかして信長を討たせた。
漁夫の利を得た秀吉が、高野山を加護したと思っています。これは私だけの意見ですが・・・。
光秀の墓所の話は聞いたことがありますが、恨みを残して死んでいったということなのでしょうか…。
秀吉のお話ですが、私はむしろ秀吉は信長以上に高野山に強硬姿勢で臨んだと認識しております。
比叡山延暦寺の件を持ち出して、言うことを効かなければ同じように焼討ちするぞと脅して、高野山側が屈服し、その後は和解して仰るような影響を与えたということだと思います。
歴史は奥が深いですね。このあたりのお話も、いずれは取り上げていければと思います。
貴重なご意見に感謝いたします。