桓武天皇は789年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、蝦夷側の指導者である阿弖流為(アテルイ)に大敗しました。ちょうど長岡京で天然痘が流行していた時期で、この敗北も「早良親王のタタリ」のひとつとされました。
平安京に遷都後の797年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて、再び蝦夷の征討を目指されました。坂上田村麻呂は桓武天皇のご期待に応えて蝦夷を征服し、802年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌803年には志波城(しわじょう、現在の岩手県盛岡市)を築き、東北地方の前進拠点としました。
しかし、これらの東北地方での戦いは平安京の造営と並行しており、国の二大政策が同時に行われたことは結果として国家財政や農民にとって大きな負担となりました。桓武天皇は、805年にこの二大事業をそろって中止することを宣言されると、翌806年に70歳で崩御されました。




いつも有難うございます。
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スカイラインV35 後世の解釈かもしれませんが、「傍系」という事で”より以上に積極的”な御方だったのかもしれませんね。江戸時代の光格天皇もそのような評価を受けていますし。「傍系」ゆえのハングリー精神なのか、「傍系」であった為に広い視野と才覚が備わったのか、鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが。。。
平安京は未完成?
オバrev 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 皇室に限らず、傍系の場合はどうしても一段低く見られがちですから、自己を積極的にアピールする傾向にあるようですね。それが必ずしも有効とは限りませんが、少なくとも今回の桓武天皇や、仰った光格天皇の場合は成功例といえると思います。
> 鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが
確かにそうですね(^^ゞ
ただ、仰ったお考えは私も同感ですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
坂上田村麻呂の征夷大将軍が、本来の意味での将軍です。後に拡大解釈されて、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などにつながっていくんですよね。
> それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
> しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
当時はタタリが正当化された時代でしたから、度重なる遷都にも一応理由があっただけ、現代よりもマシかもしれませんね。なにしろ無意味にハコモノをつくりすぎますから…。選挙後の政権も同じ轍を踏まなければよいのですが。
> でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
いわゆる政庁としての機能は完成しており、首都にふさわしい周辺の整備が途中で打ち切られたと思われます。桓武天皇の新都への意気込みは相当なものであられたようですから…。
それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
> 鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが
確かにそうですね(^^ゞ
ただ、仰ったお考えは私も同感ですよ。
坂上田村麻呂の征夷大将軍が、本来の意味での将軍です。後に拡大解釈されて、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などにつながっていくんですよね。
> それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
> しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
当時はタタリが正当化された時代でしたから、度重なる遷都にも一応理由があっただけ、現代よりもマシかもしれませんね。なにしろ無意味にハコモノをつくりすぎますから…。選挙後の政権も同じ轍を踏まなければよいのですが。
> でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
いわゆる政庁としての機能は完成しており、首都にふさわしい周辺の整備が途中で打ち切られたと思われます。桓武天皇の新都への意気込みは相当なものであられたようですから…。