明治8(1875)年12月、熊本鎮台(くまもとちんだい)歩兵(ほへい)第十四連隊長心得(れんたいちょうこころえ)に任じられた乃木は小倉に赴任(ふにん)しました。なお「鎮台」は「師団(しだん、陸軍の部隊の一つで独立した作戦行動のとれる最大の固定編制部隊のこと)」の前身であり、また「心得」が付いたのは、本来は中佐(ちゅうさ)以上の軍職である連隊長に少佐が就任した場合、中佐に昇進するまでそう呼ばれたためです。
当時は明治政府が主導(しゅどう)する急激(きゅうげき)な近代化が従来の日本の伝統を粗末(そまつ)に扱(あつか)うものであると考え、日本精神からの異議申し立てを考えていた不平士族による不穏(ふおん)な動きが見られており、明治9(1876)年には熊本で神風連(しんぷうれん)の乱、福岡で秋月(あきづき)の乱、山口で萩の乱と立て続けに反乱が起きました。
熊本や福岡の秋月、山口の萩を結ぶ要所であった小倉を任(まか)されていた乃木が反乱軍の動きを事前に察知(さっち)するなど適切(てきせつ)な対応を迅速(じんそく)に行ったこともあり、これらの乱はいずれも短期間で鎮圧(ちんあつ)することができました。
しかしその一方で、乃木は萩の乱で反乱軍に属して戦った、実弟で玉木文之進の養子となっていた玉木正諠(たまきまさよし)が戦死し、またその責めを負って養父の玉木文之進が自害(じがい)するという悲しみも背負(せお)っていたのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
昔は、何か新しい風が吹き込もうとした時点で
戦いが勃発し、多くの血が流れたのは本当に哀しい事実ですね。
今では
なるべく穏便に、話し合いを極限まで繰り返して
流血を回避しようという考え方が基本となっていますが、こうして歴史の中で
犠牲になった数々の尊い命が土台となっているからなのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 戦いにはどうしても犠牲者が出てしまうとはいえ、確かに悲しい現実ですね。
日本人同士なら話し合いを重視するという流れは決して間違いではありませんが、乃木将軍の場合はどうしようもなかったのが残念です。
乃木将軍の仁徳の源
- 黒田先生
青田です。
乃木将軍の仁徳は、こういった理不尽で、不条理なつらい体験から、創られたと思います。
本当につらい体験(心の痛み)を経験した人間だからこそ、他人の痛みを知ることができるからです。
現代でも、こういう他人の痛みがわかる人間がリーダーがいてくれたら
日本の国は、もっと良くなりますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、他人の痛みを知る人物こそがリーダーにふさわしいですよね。
現代においても一度つらい経験をした人物が返り咲いていますが、さて…。
昔は、何か新しい風が吹き込もうとした時点で
戦いが勃発し、多くの血が流れたのは本当に哀しい事実ですね。
今では
なるべく穏便に、話し合いを極限まで繰り返して
流血を回避しようという考え方が基本となっていますが、こうして歴史の中で
犠牲になった数々の尊い命が土台となっているからなのでしょうね。
日本人同士なら話し合いを重視するという流れは決して間違いではありませんが、乃木将軍の場合はどうしようもなかったのが残念です。
青田です。
乃木将軍の仁徳は、こういった理不尽で、不条理なつらい体験から、創られたと思います。
本当につらい体験(心の痛み)を経験した人間だからこそ、他人の痛みを知ることができるからです。
現代でも、こういう他人の痛みがわかる人間がリーダーがいてくれたら
日本の国は、もっと良くなりますね。
現代においても一度つらい経験をした人物が返り咲いていますが、さて…。