その後、執権の北条氏が力をつけて源氏(げんじ)が滅び、征夷大将軍は名目(めいもく)だけの地位として摂関家(せっかんけ)や皇族(こうぞく)が就任するようになりましたが、元寇という有史以来最大の外敵(がいてき)、すなわち「夷狄(いてき)」を「征伐(せいばつ)」する「将軍」としての重責(じゅうせき)を鎌倉幕府全体で果たしたことが、我が国において武家政権が高い評価(ひょうか)を得ることにつながりました。
だからこそ鎌倉幕府が滅んだ後に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によって建武(けんむ)の新政(しんせい)が一時は行われても、数年後に足利尊氏(あしかがたかうじ)が新たに征夷大将軍に任じられて室町幕府(むろまちばくふ)が開かれるなど、武家政権は頼朝以来700年近くにわたって続きました。
そして、19世紀後半に開国などによる混乱が続いた際に、江戸幕府(えどばくふ)が征夷大将軍として、つまり外国に対して武力以外も含(ふく)めた「攘夷(じょうい)を行う意思」を明確に示せなかったことが、結果として武家政権全体の信頼を失い、明治新政府の誕生を呼んだともいえるのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
攘夷を行う意思が無くなったという
事は、やはり
江戸時代が300年間も外国との関係を
封印していた事に大きな要因が
あったのでしょうか?
これは
すっかり平和ボケした成れの果て?
言い過ぎでしょうか・・・^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、決して言い過ぎではないと思います。
江戸幕府がカトリックを排除するために行った制限貿易は、強大な軍事力(戦国時代が終わった直後だったからです)があったから可能でした。
ところが、太平の世に慣れ切ってしまった幕府が平和ボケしていたがゆえに外国の介入を許し、幕末の大混乱を招いてしまい、その際に攘夷の意思がなかった幕府が倒されてしまったわけですからね。
ちなみに、平和ボケであることは現代も同じですから、危機感をもっと持たないといけません。
ある程度強権も必要
青田 黒田先生
青田です。
この征夷大将軍ですが、戦時における、夷狄(いてき)を征伐するためにの強権が、慣習化したものというのは
裏を返せば、
武士道の
『常在戦場』(いつでも、戦場にいる気構えを持たないいけない。)
に繋がった気がします。
江戸幕府は、この『常在戦場』の精神は、なくなりましたが、
かろじて、薩摩・長州に残っていたころが、日本を救った気がします。(植民地にならないですんだという意味で)
しかし、
今は、非常時に強権を発令するどころではないですし(憲法9条)、
国民は、『常在戦場』の精神もなくなっています。
考えようによっては、鎌倉時代よりも、危機ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
逆に言えば、征服者にとって都合が良いからこそ、我が国に巣食うスパイ組織が憲法9条を守ろうとするのでしょう。
攘夷を行う意思が無くなったという
事は、やはり
江戸時代が300年間も外国との関係を
封印していた事に大きな要因が
あったのでしょうか?
これは
すっかり平和ボケした成れの果て?
言い過ぎでしょうか・・・^_^;
江戸幕府がカトリックを排除するために行った制限貿易は、強大な軍事力(戦国時代が終わった直後だったからです)があったから可能でした。
ところが、太平の世に慣れ切ってしまった幕府が平和ボケしていたがゆえに外国の介入を許し、幕末の大混乱を招いてしまい、その際に攘夷の意思がなかった幕府が倒されてしまったわけですからね。
ちなみに、平和ボケであることは現代も同じですから、危機感をもっと持たないといけません。
青田です。
この征夷大将軍ですが、戦時における、夷狄(いてき)を征伐するためにの強権が、慣習化したものというのは
裏を返せば、
武士道の
『常在戦場』(いつでも、戦場にいる気構えを持たないいけない。)
に繋がった気がします。
江戸幕府は、この『常在戦場』の精神は、なくなりましたが、
かろじて、薩摩・長州に残っていたころが、日本を救った気がします。(植民地にならないですんだという意味で)
しかし、
今は、非常時に強権を発令するどころではないですし(憲法9条)、
国民は、『常在戦場』の精神もなくなっています。
考えようによっては、鎌倉時代よりも、危機ですね。
逆に言えば、征服者にとって都合が良いからこそ、我が国に巣食うスパイ組織が憲法9条を守ろうとするのでしょう。