それでも元軍の一部が幕府軍の守備の及ばない搦(から)め手から上陸し、博多の町に侵入(しんにゅう)して乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働きましたが、すぐに幕府軍に見つかって街中で激しい戦いを繰(く)り広げました。
一方の幕府軍も夜になって周囲(しゅうい)が真っ暗になると、夜陰(やいん)にまぎれて敵船に乗りこんで火をつけ、あわてた敵兵を討ち取るなどのゲリラ戦を敢行(かんこう)するなど健闘(けんとう)を重ね、戦いは膠着状態(こうちゃくじょうたい)となりました。
そして7月1日(現在の暦で8月16日)、北九州方面を襲った大暴風雨(だいぼうふうう)によって元軍の乗っていた軍船がことごとく破壊(はかい)され、多くの兵が亡(な)くなりました。戦意を喪失(そうしつ)した元軍は高麗へと引き上げ、国内に残った兵も幕府軍の掃討戦(そうとうせん)によって討ち取られました。元軍との二度目のこの戦いは当時の年号から弘安(こうあん)の役といい、文永の役とともに元寇と呼ばれています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
我が国も、台風やらの自然災害が
多い国ですからね・・(^^ゞ。
そこの所を上手く把握していないと
どんなに強固な軍事力を駆使しても
自然相手では、どんな国でも
太刀打ち出来ませんね。
この時代の日本は自然が味方になって
くれるという運も持ち合わせていた様ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 弘安の役の時期はちょうど台風の季節であったのが、我が国にとっては幸いだったことは確かですね。
ただ、我が国が元寇に勝った理由は他にも色々とあるようですので、今後の更新で明らかにしていきたいと思います。
我が国も、台風やらの自然災害が
多い国ですからね・・(^^ゞ。
そこの所を上手く把握していないと
どんなに強固な軍事力を駆使しても
自然相手では、どんな国でも
太刀打ち出来ませんね。
この時代の日本は自然が味方になって
くれるという運も持ち合わせていた様ですね!
ただ、我が国が元寇に勝った理由は他にも色々とあるようですので、今後の更新で明らかにしていきたいと思います。