元との再戦(さいせん)を決意した北条時宗は異国警固番役を強化するとともに、全国の御家人に命じて博多湾沿(ぞ)いに石造(せきぞう)の防塁(ぼうるい)である石塁(せきるい)を築き、元の再来襲に備(そな)えましたが、その際に時宗は工事への参加に関して一切の妥協(だきょう)も反論(はんろん)も許さなかったそうです。
元軍の来襲という未曾有(みぞう)の国難(こくなん)に備えたわけですし、また武家政権(ぶけせいけん)の棟梁(とうりょう)としても当然の行動といえるかもしれませんが、このように政治や軍事において「断固(だんこ)たる決意を示す」ことが、後々に大きな影響を与(あた)えることは今も昔も変わりません。
我が国の強硬(きょうこう)な姿勢(しせい)に対して、再び日本を攻める決断をしたフビライは、1279年に南宋を滅ぼすと、返す刀で1281年の5月から6月にかけて、兵数約14万人という前回の4倍以上の兵を二手(ふたて)に分けて再び博多湾に差し向けました。





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青田 黒田先生
青田です。
考えてみれば、14万の大軍勢というと
想像を絶する大軍勢ですね。
承久の乱の時、鎌倉武士の軍勢は、全部で
19万人です。
しかも、まだ、この当時は、鎌倉幕府の西国への支配は、東国に比べて、強くなかったはず
です。(?おそらく)
この時の日本の主力部隊は、九州の御家人です。
戦国時代で、活躍した家も多く含まれています。
正直、九州の御家人は、本当に頑張ったと思います。
正直、某国が上陸する可能性が強いところに
勇気と愛国心が強い九州の御家人がいたことが幸いしました。
逆に、現代の尖閣諸島のように、某国が上陸する可能性があるところに近い所が、反日的で、愛国心がないと。。。(泣)
まさに、今、『元寇の役』から、多くを学ばないといけないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに元寇には学ぶところが多いですね。
愛国心の欠如などは現代の大きな問題でしょうし。
ぴーち こんばんは!
今でも
さすがは九州男児!などとはやし立てる言葉が
ありますが、この時の戦いぶりを評価されて
言われ続けた言葉だったのでしょうかね?^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でも
> さすがは九州男児!などとはやし立てる言葉が
> ありますが、この時の戦いぶりを評価されて
> 言われ続けた言葉だったのでしょうかね?^^
なるほど、言われてみればあり得そうですねぇ。
いずれにせよこれからの戦いぶりが明暗を分けることになります。
青田です。
考えてみれば、14万の大軍勢というと
想像を絶する大軍勢ですね。
承久の乱の時、鎌倉武士の軍勢は、全部で
19万人です。
しかも、まだ、この当時は、鎌倉幕府の西国への支配は、東国に比べて、強くなかったはず
です。(?おそらく)
この時の日本の主力部隊は、九州の御家人です。
戦国時代で、活躍した家も多く含まれています。
正直、九州の御家人は、本当に頑張ったと思います。
正直、某国が上陸する可能性が強いところに
勇気と愛国心が強い九州の御家人がいたことが幸いしました。
逆に、現代の尖閣諸島のように、某国が上陸する可能性があるところに近い所が、反日的で、愛国心がないと。。。(泣)
まさに、今、『元寇の役』から、多くを学ばないといけないですね。
愛国心の欠如などは現代の大きな問題でしょうし。
今でも
さすがは九州男児!などとはやし立てる言葉が
ありますが、この時の戦いぶりを評価されて
言われ続けた言葉だったのでしょうかね?^^
> さすがは九州男児!などとはやし立てる言葉が
> ありますが、この時の戦いぶりを評価されて
> 言われ続けた言葉だったのでしょうかね?^^
なるほど、言われてみればあり得そうですねぇ。
いずれにせよこれからの戦いぶりが明暗を分けることになります。