やがて元軍は沖合(おきあい)に船を避難(ひなん)させると、何とそのまま高麗まで退却(たいきゃく)してしまったのです。この戦いは当時の年号から文永(ぶんえい)の役(えき)と呼ばれています。
なお、これまでの通説では季節外(きせつはず)れの暴風(ぼうふう)が吹き荒(あ)れたことで元軍が退却したとされてきましたが、実際には意外な抵抗を受けて怖(こわ)くなった元軍や高麗軍が逃げ帰ったというのが真相(しんそう)であり、日本側の記録にも「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚(おどろ)いた」と書かれています。
こうして何とか文永の役を乗り切った我が国でしたが、フビライがこの一戦だけで侵略をあきらめるとは到底(とうてい)考えられません。今度は前回の何倍もの兵力をもって我が国に再(ふたた)び襲いかかるであろうことは誰(だれ)の目にも明白(めいはく)であり、そのことが若き執権の北条時宗を悩(なや)ませました。
来日(らいにち)していた南宋の名僧(めいそう)であった蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)らと相談(そうだん)した時宗は、やがて元軍と徹底的(てっていてき)に戦う意思を固めました。この決断が最終的に我が国を救うことにつながるのです。





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ぴーち こんばんは^^
黒田さんの仰るお話が事実だとすれば
元軍を武力で追い返したということは
立派な武勇伝として残されても良いような気もしますが、どうして神がかり的な伝説として
これまで語り継がれてしまっているんでしょうかね?
日本にとっては、軍事力以前に何か得体の知れない大きな力で常に守られているという説の方がより都合が良いという事なのでしょうか。
北条兄弟の結束
青田 黒田先生
青田です。
北条時宗が、前線に行けませんでしたが
弟の北条宗政は、築後守護として、前線で指揮を取り、弘安の役で、勝利でわくなか死にました。
亨年29歳。
その弟の北条宗頼は、長門・周防守護として、
異国警護として、前線で、行政を行っていましたが
弘安の役の2年前に亡くなりました。
この2人の兄弟が、北条時宗の名代として、前線に立ったことが、地元の御家人の士気を高めたと思います。
北条時宗も立派ですが、その弟達も、本当に立派です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 文永の役が「暴風雨で元軍が負けた」と書かれている史料は我が国にはなく、書かれているのは負けた高麗側に残された分のみです。
なぜ高麗が「ウソ」をついたのかは謎ですが、本文にあるように「ビビッて引き上げた」ことがばれれば本国(=元)からどんな目にあわされるか分からないために「暴風雨」という「言い訳」を「捏造」したのではないか、とも考えられています。
その後、弘安の役を経て我が国でも「暴風雨」が強く認識され、いつの間にか文永の役も同じ理由になってしまったのかもしれませんね。このあたりはもう少し先に改めて検証したいと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この時代に北条氏が政権を握っていたことが、我が国にとっては本当に良かったと言えるでしょう。
黒田さんの仰るお話が事実だとすれば
元軍を武力で追い返したということは
立派な武勇伝として残されても良いような気もしますが、どうして神がかり的な伝説として
これまで語り継がれてしまっているんでしょうかね?
日本にとっては、軍事力以前に何か得体の知れない大きな力で常に守られているという説の方がより都合が良いという事なのでしょうか。
青田です。
北条時宗が、前線に行けませんでしたが
弟の北条宗政は、築後守護として、前線で指揮を取り、弘安の役で、勝利でわくなか死にました。
亨年29歳。
その弟の北条宗頼は、長門・周防守護として、
異国警護として、前線で、行政を行っていましたが
弘安の役の2年前に亡くなりました。
この2人の兄弟が、北条時宗の名代として、前線に立ったことが、地元の御家人の士気を高めたと思います。
北条時宗も立派ですが、その弟達も、本当に立派です。
なぜ高麗が「ウソ」をついたのかは謎ですが、本文にあるように「ビビッて引き上げた」ことがばれれば本国(=元)からどんな目にあわされるか分からないために「暴風雨」という「言い訳」を「捏造」したのではないか、とも考えられています。
その後、弘安の役を経て我が国でも「暴風雨」が強く認識され、いつの間にか文永の役も同じ理由になってしまったのかもしれませんね。このあたりはもう少し先に改めて検証したいと思います。
この時代に北条氏が政権を握っていたことが、我が国にとっては本当に良かったと言えるでしょう。