そのような自らのご事情と、藤原氏や皇族に対する冷淡なご感情とによって、称徳天皇は天皇の後継として僧である道鏡を指名する決意をされました。ちょうどその頃、769年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位につけば天下は太平になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、ことの真偽を和気清麻呂(わけのきよまろ)に確認させました。しかし、和気清麻呂は称徳天皇のご期待に反して「皇位は神武天皇以来の皇統が継承すべきである」との神託を持ち帰りました。
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触れた和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と無理やり改名させられたうえに大隅国(おおすみのくに、現在の鹿児島県東部)に追放されてしまいました。これらの出来事を「宇佐八幡宮神託事件」といいます。
道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのかやがて重い病となられ、770年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくした道鏡は下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)に追放となり、その地で亡くなりました。




いつも有難うございます。
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アキ えぇ~っ!?
期待に添わない結果だったからって、むちゃくちゃしますねー。鬼嫁でもそんな惨いことはしませんぜ(笑)
それは和気清麻呂が故意的にやったことだからですか?
本当に神託だったとしたら浮かばれませんねぇ。
ここでもまた「おつげ」に左右されるのですね(苦笑)
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アキさんへ
黒田裕樹 「清麻呂」が「穢麻呂」ですからあんまりですよね(笑)。
神託については八幡宮側が「道鏡を天皇に」とでっち上げた説もありますが、真相ははっきりしていません。ただ、この事件をきっかけに「皇位は神武天皇以来の皇統が継承する」という原則が確立したのは事実といえます。また、清麻呂は称徳天皇の崩御後に、名誉を回復されています。
8世紀の時代ですから、「お告げ」にもそれなりの大義名分があったんですね。
MAHHYA 「穢麻呂」に改名って、本当スゴイですね、完全に感情的になってますね…(^_^;)
和気清麻呂は第二次世界大戦中は、皇統をお守りしたとして高い人気があったと聞きます。
最近は、あまり知っている人も少ないのでしょうかねー…。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。私の方はいわゆる「読み逃げ」が多くて申し訳ないですm(_ _)m
> 「穢麻呂」に改名って、本当スゴイですね、完全に感情的になってますね…(^_^;)
ヒステリックな感情がうかがえますね。ご自身の夢が破れて、怒りが頂点に達しておられたのでしょう。
> 和気清麻呂は第二次世界大戦中は、皇統をお守りしたとして高い人気があったと聞きます。
> 最近は、あまり知っている人も少ないのでしょうかねー…。
大戦中は特に国民の精神をひとつにまとめる必要がありましたから、昔からの我が国の至宝である皇統におすがりした一面があります。和気清麻呂の行動は、楠木正成とともに当時は高い評価を受けました。ただ、その反動のせいなのか、現在は教えられなくなったことが寂しくもあります。
さすらい こんばんは。
時の権力者の皇位継承とは
なかなか思うようにいかないものですね。
また、その繰り返しも歴史なのでしょうか。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 権力者の交代がスムーズに行かないことによって、また新しい歴史が動くことがよくありますね。
奈良時代に目まぐるしく権力者が変化したのは、スムーズに行ったことがなかったからかもしれません。しかし、そんな歴史も最後には…。次回の講座でひと段落となりそうですね。
期待に添わない結果だったからって、むちゃくちゃしますねー。鬼嫁でもそんな惨いことはしませんぜ(笑)
それは和気清麻呂が故意的にやったことだからですか?
本当に神託だったとしたら浮かばれませんねぇ。
ここでもまた「おつげ」に左右されるのですね(苦笑)
神託については八幡宮側が「道鏡を天皇に」とでっち上げた説もありますが、真相ははっきりしていません。ただ、この事件をきっかけに「皇位は神武天皇以来の皇統が継承する」という原則が確立したのは事実といえます。また、清麻呂は称徳天皇の崩御後に、名誉を回復されています。
8世紀の時代ですから、「お告げ」にもそれなりの大義名分があったんですね。
和気清麻呂は第二次世界大戦中は、皇統をお守りしたとして高い人気があったと聞きます。
最近は、あまり知っている人も少ないのでしょうかねー…。
> 「穢麻呂」に改名って、本当スゴイですね、完全に感情的になってますね…(^_^;)
ヒステリックな感情がうかがえますね。ご自身の夢が破れて、怒りが頂点に達しておられたのでしょう。
> 和気清麻呂は第二次世界大戦中は、皇統をお守りしたとして高い人気があったと聞きます。
> 最近は、あまり知っている人も少ないのでしょうかねー…。
大戦中は特に国民の精神をひとつにまとめる必要がありましたから、昔からの我が国の至宝である皇統におすがりした一面があります。和気清麻呂の行動は、楠木正成とともに当時は高い評価を受けました。ただ、その反動のせいなのか、現在は教えられなくなったことが寂しくもあります。
時の権力者の皇位継承とは
なかなか思うようにいかないものですね。
また、その繰り返しも歴史なのでしょうか。
応援♪
奈良時代に目まぐるしく権力者が変化したのは、スムーズに行ったことがなかったからかもしれません。しかし、そんな歴史も最後には…。次回の講座でひと段落となりそうですね。