しかしこの政策は、仮に新羅征討に成功したとしてもやがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという極めて危険なものでした。およそ100年前に起きた白村江の悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去すると、恵美押勝の勢力は急速に衰えていきました。その一方で、病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が、僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、恵美押勝に対する批判が集まる中で、次第に影響力を高められました。
あせった恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと764年に反乱を企てましたが未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路国(あわじのくに、現在の兵庫県淡路島)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。
天皇の位には、孝謙上皇が重祚(ちょうそ、一度退位された天皇が再び即位されること)されて第48代の称徳天皇となられました。尚、淳仁天皇は称徳天皇によって崩御後も贈り名を与えられず、長らく「淡路廃帝」(あわじはいたい)と呼ばれました。「淳仁天皇」と追号されたのは明治になってからのことです。




いつも有難うございます。
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アキ あ・・・あれっ(汗)
今までのお話は、何かしら聞いたことがあって、点と点がやっとつながった!って感じだったのですが、
今回は「新羅」しか知ってるワードがありません。
そうです、さっぱり内容が飛んでおります。
んー?この時、学校休んでたのかなー?
毎日お邪魔しておりますが、しっかりランキング応援×4しておりますよー!!
こんな面白くて勉強になるブログは、もっともっと知れ渡って、みんなに読んで欲しいですもの!
さぁーみんなでクリックだー!!
え?ウザイ?私、ウザイ?
アキさんへ
黒田裕樹 新羅と我が国には根が深い因縁があるんですよ。もともと朝鮮半島には高句麗・新羅・百済の3ヶ国と我が国との関わりが深い地域である任那(みまな)に分かれていたんですが、その任那を新羅が滅ぼしてしまったんです。
当然新羅に対して我が国は怒りますよね。ところが、(我が国にとっては)よりによってその新羅が7世紀に朝鮮半島を統一してしまうんです。その最中に友好国であった百済も新羅に滅ぼされた我が国は、百済の復興を目指して新羅と戦いますが、大国の唐を味方に付けた新羅に大敗してしまい(白村江の戦い)、あわや亡国の一歩手前まで行ってしまいました。
ここで我が国がとるべき道は二つありました。恨みの深い新羅を滅ぼすために唐と同盟するか、あるいは恨みを水に流して、唐への防波堤の意味も込めて新羅と同盟するかでした。前者は天智天皇、後者は天武天皇がお考えだったのですが、新羅が滅ぼされたことで唐と我が国が事実上隣同士になり、いつ攻められてもおかしくないという危険性を考えれば、後者の方が我が国の「生き筋」でした。
壬申の乱の結果、勝利した天武天皇の外交策が優先され、我が国は新羅と同盟を結びますが、唐との友好関係が復活すると、我が国と新羅との仲は再び悪化しました。しかし、だからといって新羅を滅ぼしてしまっては、白村江の悲劇が再び繰り返される恐れがあったんです。恵美押勝と孝謙上皇とが対立して、恵美押勝が倒されたのも、我が国の「生き筋」が優先されたからなんです。
…以上、長くなってしまいましたが、ご理解いただけましたでしょうか?
もしよろしければ、検索フォームで「新羅」と入力されれば、もう少し詳しくお分かりいただけると思いますよ(^^♪
ウザイだなんてとんでもない!
ご宣伝いただき、感謝しておりますm(_ _)m
たか 最近読めてなかったので
前の記事とか読んで
すこしづつでも理解が
深まればいいです^^
↑のコメントも参考に
させてもらいますw
たかさんへ
黒田裕樹 そうですね。一つ一つの記事はそれほど量が多くないと思いますので、たかさんご自身のペースで気軽に進めて下さいね(^^♪
…たしかに参考になりそうですね(^^ゞ
ぴーち こんばんは!
>およそ100年前に起きた白村江の悲劇をまた繰り返すのか・・・・
この時代からすれば、100年前かもしれませんが、
私にとってはホンの30日前に、ここでお勉強させていただいた事件でございますが、ほぼ、どういう内容だったかという事が88%くらい、この暑さで蒸発してしまっています(^-^A
また、過去記事から復習させていただかないと(^0^ノおほほ~♪
昔は一度天皇の地位を退位した後、再び
即位することがあったのですね~^^
それでは、また~♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 毎日暑いですからね。氷とともに記憶も溶けてしまうのでしょうか…
冗談はともかく(笑)、ブログ画面の右上にあります検索フォームをご使用になれば、復習しやすいと思いますので、是非ご利用下さい。
重祚された天皇は、称徳天皇のほかにもうお一人おられますよ。これに関しても「重祚」で一度検索してみて下さいね
さすらい こんばんは。
なるほど、明治なるまで葬られていたのですね。
いかにも歴史らしいです。
後々によってわかることや
認められることが多々あるから面白い。
新しい発見や解読は
これからもどんどんあって欲しいですね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。淳仁天皇のように追号されなかった天皇は3人おられることとか、意外と知られていない現実が多いのも歴史の大きな特徴ですから、そのあたりの開拓や、また古文書の発見などによる新たな発見も大きな魅力だと思います。
仰るとおり、新しい発見が増えることで、歴史に対する興味がますます深まって欲しいですね(^^♪
祈祷で治る?
オバrev こんばんは 黒田先生 トラックバックの件、どうぞどうぞ。よろしくお願いします。
ところで、本当に奈良時代は権力者が次々変わっていきますね。
道鏡は結構悪名高い人物と理解していますが、実際はどうなんでしょうか。
以前読んだ、奈良の大仏建立の話が書かれた本「国銅」に出てくる僧侶は、慕ってくる若者に、文字を教え、薬草についても教えていました。
道鏡も薬草の知識があったんじゃないでしょうか。いくら何でも祈祷だけでは治らんでしょう?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > こんばんは 黒田先生 トラックバックの件、どうぞどうぞ。よろしくお願いします。
有難うございます。よろしければこちら側からもお受けしますので、お気軽にお声をかけて下さい(^_^)v
> ところで、本当に奈良時代は権力者が次々変わっていきますね。
> 道鏡は結構悪名高い人物と理解していますが、実際はどうなんでしょうか。
そのあたりについては18日以降の講座で詳しく紹介できると思いますのでお楽しみに!
ただ、道鏡に関する記述に関しては「あれ?」と思われるかもしれませんね(^^ゞ
> 以前読んだ、奈良の大仏建立の話が書かれた本「国銅」に出てくる僧侶は、慕ってくる若者に、文字を教え、薬草についても教えていました。
> 道鏡も薬草の知識があったんじゃないでしょうか。いくら何でも祈祷だけでは治らんでしょう?
仰るとおりだと思います。奈良時代の僧は当時のエリートでもありましたから、学問以外でもあらゆる知識に長けていたといわれています。唐から来日した鑑真も薬草の詳しい知識を持っていましたから、道鏡が薬草に詳しかった可能性は十分にあります。
つまり、精神面と技術面の両方で称徳天皇(=孝謙上皇)を助けたわけなんですね。ただ、祈祷というイメージが、彼の本当の姿を大きくゆがめたような気がします。
ぴーち こんばんは~!
私には、明らかに手抜きに思えるんですが?(笑)
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 これは失礼しましたm(_ _)m
それではもう一度復習してみましょう。
まず、白村江の悲劇というのは、663年に我が国と旧百済の連合軍が、新羅と唐の連合軍に大敗した「白村江の戦い」が由来です。この戦いに敗北したことにより、我が国は大国である唐を敵に回してしまい、いつ攻め込まれてもおかしくないという極めて危険な状態になりました。
慌てた朝廷は九州地方の守りを強化したり、都を水運のある琵琶湖の近くに遷したりしましたが、結局唐が我が国に攻め込むことはありませんでした。唐と我が国の間に挟まった形になった新羅が唐を追い出して朝鮮半島を統一し、ちょうど我が国にとって唐に対する防波堤の形になったからです。
もっとも、新羅が統一に成功したのは、我が国と国交を回復したからでした。打倒新羅にこだわる天智天皇のお考えよりも、対唐外交の防衛線として新羅の存在を認めたほうが良いとする天武天皇のお考えが、壬申の乱を通じて我が国で支持されたからでした。
それなのに、仲麻呂が防波堤に位置するはずの新羅を滅ぼして唐と国境を接し、いわゆる「寝た子を起こす」状態になって、唐が我が国に攻め込む口実を与えかねないような外交策は、まさに100年前の恐怖の再来であり、許されざることだったゆえに、孝謙上皇(=称徳天皇)の政界復帰によって仲麻呂が倒された、という訳です。
それから重祚に関しては、天智天皇の母親でもいらっしゃる皇極天皇が一旦退位された後に即位された孝徳天皇が崩御された際に、再び天皇に返り咲いて斉明天皇となられた、という前例があります。斉明天皇にしても、称徳天皇にしても、重祚された天皇がいずれも古代の女性天皇というのは興味深いですね。
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今までのお話は、何かしら聞いたことがあって、点と点がやっとつながった!って感じだったのですが、
今回は「新羅」しか知ってるワードがありません。
そうです、さっぱり内容が飛んでおります。
んー?この時、学校休んでたのかなー?
毎日お邪魔しておりますが、しっかりランキング応援×4しておりますよー!!
こんな面白くて勉強になるブログは、もっともっと知れ渡って、みんなに読んで欲しいですもの!
さぁーみんなでクリックだー!!
え?ウザイ?私、ウザイ?
当然新羅に対して我が国は怒りますよね。ところが、(我が国にとっては)よりによってその新羅が7世紀に朝鮮半島を統一してしまうんです。その最中に友好国であった百済も新羅に滅ぼされた我が国は、百済の復興を目指して新羅と戦いますが、大国の唐を味方に付けた新羅に大敗してしまい(白村江の戦い)、あわや亡国の一歩手前まで行ってしまいました。
ここで我が国がとるべき道は二つありました。恨みの深い新羅を滅ぼすために唐と同盟するか、あるいは恨みを水に流して、唐への防波堤の意味も込めて新羅と同盟するかでした。前者は天智天皇、後者は天武天皇がお考えだったのですが、新羅が滅ぼされたことで唐と我が国が事実上隣同士になり、いつ攻められてもおかしくないという危険性を考えれば、後者の方が我が国の「生き筋」でした。
壬申の乱の結果、勝利した天武天皇の外交策が優先され、我が国は新羅と同盟を結びますが、唐との友好関係が復活すると、我が国と新羅との仲は再び悪化しました。しかし、だからといって新羅を滅ぼしてしまっては、白村江の悲劇が再び繰り返される恐れがあったんです。恵美押勝と孝謙上皇とが対立して、恵美押勝が倒されたのも、我が国の「生き筋」が優先されたからなんです。
…以上、長くなってしまいましたが、ご理解いただけましたでしょうか?
もしよろしければ、検索フォームで「新羅」と入力されれば、もう少し詳しくお分かりいただけると思いますよ(^^♪
ウザイだなんてとんでもない!
ご宣伝いただき、感謝しておりますm(_ _)m
前の記事とか読んで
すこしづつでも理解が
深まればいいです^^
↑のコメントも参考に
させてもらいますw
…たしかに参考になりそうですね(^^ゞ
>およそ100年前に起きた白村江の悲劇をまた繰り返すのか・・・・
この時代からすれば、100年前かもしれませんが、
私にとってはホンの30日前に、ここでお勉強させていただいた事件でございますが、ほぼ、どういう内容だったかという事が88%くらい、この暑さで蒸発してしまっています(^-^A
また、過去記事から復習させていただかないと(^0^ノおほほ~♪
昔は一度天皇の地位を退位した後、再び
即位することがあったのですね~^^
それでは、また~♪
冗談はともかく(笑)、ブログ画面の右上にあります検索フォームをご使用になれば、復習しやすいと思いますので、是非ご利用下さい。
重祚された天皇は、称徳天皇のほかにもうお一人おられますよ。これに関しても「重祚」で一度検索してみて下さいね
なるほど、明治なるまで葬られていたのですね。
いかにも歴史らしいです。
後々によってわかることや
認められることが多々あるから面白い。
新しい発見や解読は
これからもどんどんあって欲しいですね。
応援♪
仰るとおり、新しい発見が増えることで、歴史に対する興味がますます深まって欲しいですね(^^♪
ところで、本当に奈良時代は権力者が次々変わっていきますね。
道鏡は結構悪名高い人物と理解していますが、実際はどうなんでしょうか。
以前読んだ、奈良の大仏建立の話が書かれた本「国銅」に出てくる僧侶は、慕ってくる若者に、文字を教え、薬草についても教えていました。
道鏡も薬草の知識があったんじゃないでしょうか。いくら何でも祈祷だけでは治らんでしょう?
有難うございます。よろしければこちら側からもお受けしますので、お気軽にお声をかけて下さい(^_^)v
> ところで、本当に奈良時代は権力者が次々変わっていきますね。
> 道鏡は結構悪名高い人物と理解していますが、実際はどうなんでしょうか。
そのあたりについては18日以降の講座で詳しく紹介できると思いますのでお楽しみに!
ただ、道鏡に関する記述に関しては「あれ?」と思われるかもしれませんね(^^ゞ
> 以前読んだ、奈良の大仏建立の話が書かれた本「国銅」に出てくる僧侶は、慕ってくる若者に、文字を教え、薬草についても教えていました。
> 道鏡も薬草の知識があったんじゃないでしょうか。いくら何でも祈祷だけでは治らんでしょう?
仰るとおりだと思います。奈良時代の僧は当時のエリートでもありましたから、学問以外でもあらゆる知識に長けていたといわれています。唐から来日した鑑真も薬草の詳しい知識を持っていましたから、道鏡が薬草に詳しかった可能性は十分にあります。
つまり、精神面と技術面の両方で称徳天皇(=孝謙上皇)を助けたわけなんですね。ただ、祈祷というイメージが、彼の本当の姿を大きくゆがめたような気がします。
私には、明らかに手抜きに思えるんですが?(笑)
それではもう一度復習してみましょう。
まず、白村江の悲劇というのは、663年に我が国と旧百済の連合軍が、新羅と唐の連合軍に大敗した「白村江の戦い」が由来です。この戦いに敗北したことにより、我が国は大国である唐を敵に回してしまい、いつ攻め込まれてもおかしくないという極めて危険な状態になりました。
慌てた朝廷は九州地方の守りを強化したり、都を水運のある琵琶湖の近くに遷したりしましたが、結局唐が我が国に攻め込むことはありませんでした。唐と我が国の間に挟まった形になった新羅が唐を追い出して朝鮮半島を統一し、ちょうど我が国にとって唐に対する防波堤の形になったからです。
もっとも、新羅が統一に成功したのは、我が国と国交を回復したからでした。打倒新羅にこだわる天智天皇のお考えよりも、対唐外交の防衛線として新羅の存在を認めたほうが良いとする天武天皇のお考えが、壬申の乱を通じて我が国で支持されたからでした。
それなのに、仲麻呂が防波堤に位置するはずの新羅を滅ぼして唐と国境を接し、いわゆる「寝た子を起こす」状態になって、唐が我が国に攻め込む口実を与えかねないような外交策は、まさに100年前の恐怖の再来であり、許されざることだったゆえに、孝謙上皇(=称徳天皇)の政界復帰によって仲麻呂が倒された、という訳です。
それから重祚に関しては、天智天皇の母親でもいらっしゃる皇極天皇が一旦退位された後に即位された孝徳天皇が崩御された際に、再び天皇に返り咲いて斉明天皇となられた、という前例があります。斉明天皇にしても、称徳天皇にしても、重祚された天皇がいずれも古代の女性天皇というのは興味深いですね。