また同年には米穀配給統制法(べいこくはいきゅうとうせいほう)を制定してコメの集荷機構(しゅうかきこう)を政府の統制下に置きましたが、その後コメの流通が滞(とどこお)り始めたのを受けて、昭和15(1940)年からはコメの強制買い上げである供出制(きょうしゅつせい)が実施されました。
しかし、それでもコメを含む食糧(しょくりょう)の生産が低下して食糧難(しょくりょうなん)が深刻化(しんこくか)したため、昭和17(1942)年に制定された食糧管理法(しょくりょうかんりほう)によって、コメ以外の麦・イモなどの主要食糧全体の生産・流通・消費のすべてを政府が介入(かいにゅう)して管理するようになりました。
これらのように政府は食糧難の解消をめざして法整備など様々な政策(せいさく)を行いましたが、食糧難のそもそもの原因が徴兵(ちょうへい)や徴用(ちょうよう)による農家の労働力不足や生産資材の不足にあったことや、凶作(きょうさく)が相次(あいつ)いだこともあり、根本的(こんぽんてき)な解決にはなり得ませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
つい先日も
ある新聞のコラム欄を読ませていただいた時に
戦争で駆りだされたのは、主に貧しい家の(農家を主に含む)若者が中心であったと有りましたが、確かに働き手を失えば、生産能力は落ち込んでしまいますものね。
この当時の打開策は他にあったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 政府もいろいろと対策を練ってはいましたが、働き手の絶対数が不足していたことが致命的でしたからね。
年を経るごとに追い詰められたとも言えるでしょう。
つい先日も
ある新聞のコラム欄を読ませていただいた時に
戦争で駆りだされたのは、主に貧しい家の(農家を主に含む)若者が中心であったと有りましたが、確かに働き手を失えば、生産能力は落ち込んでしまいますものね。
この当時の打開策は他にあったのでしょうか?
応援凸
年を経るごとに追い詰められたとも言えるでしょう。