相次いで病死した藤原四兄弟の子孫たちがまだ若かったこともあり、皇族出身で臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)した橘諸兄が右大臣(後に左大臣まで昇進)となって政治の実権を握りました。
橘諸兄は、唐から帰国した留学生の吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)を重用しましたが、これに反発した藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、長屋王のタタリとも思える相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、この後平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆(こうりゅう)を政策の最重要課題とされました。
741年、聖武天皇は全国に国分寺(こくぶんじ)や国分尼寺(こくぶんにじ)を建てるとする国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)を出され、国府(こくふ)の近くに次々と国分寺が建てられました。全国の至るところに「国分」に関する地名が残っている由来でもあります。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。




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オバrev 藤原不比等~長屋王~藤原4兄弟~橘諸兄とコロコロ権力が移り変わってますね。
武力による2大政党の政権交代みたいです。
となるとこの後はまた藤原氏ですか?
それにしても政権交代もですが、聖武天皇の時代、平城京から恭仁京~難波宮~紫香楽宮と相次いで都を遷されました、って、たたりを恐れるというのは分かるけど、何か受験生泣かせみたい(^_^;)
ただ、あの巨大な奈良の大仏、盧舎那仏は長屋王のたたりを鎮めるためだったとは知りませんでした。よほど恐れていたというのが良く分かります。
国分寺は私の住んでいる近所にも安芸国分寺というのがありますよ。
ちょっと恐れで肝っ玉は小さかった?かもしれないけど、盧舎那仏を建てたり、全国に国分寺、国分尼寺を建てたり、権力はかなり強かったんですね。
度重なる遷都
kenちゃんマイド 次からつぎへ、度重なる遷都は単にタタリを恐れての事でしょうか。いったい誰のタタリなのか藤原4兄弟なのか、それとも長屋王なのか、いまいち解せません。確かに当時は現代よりタタリを過剰に信じられていたと思いますがそんなにタタリが怖いのなら悪いことをしなければいいのに、と思います。遷都の理由はほかにありませんか。聖武天皇の性格的なものか、このへんが不思議でなりません。黒田先生のお考えはいかがですか?ただ単に遷都を繰り返した、で歴史書は終わるのが残念でなりません。先生の所感をきかせてください。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原不比等~長屋王~藤原4兄弟~橘諸兄とコロコロ権力が移り変わってますね。
> 武力による2大政党の政権交代みたいです。
いわれてみればそのとおりですね。もっとも、平和的な選挙ではなく、命のやり取りを伴うのが何とも…。
> となるとこの後はまた藤原氏ですか?
さぁ、どうでしょう?(笑)
「奈良時代の政治」の項目はもうしばらく続きますので、お楽しみに(^_^)v
> それにしても政権交代もですが、聖武天皇の時代、平城京から恭仁京~難波宮~紫香楽宮と相次いで都を遷されました、って、たたりを恐れるというのは分かるけど、何か受験生泣かせみたい(^_^;)
項目重視の受験日本史にはもってこいの材料ですからね。それで「知ったつもり」になってもらっては困りますが…。
> ただ、あの巨大な奈良の大仏、盧舎那仏は長屋王のたたりを鎮めるためだったとは知りませんでした。よほど恐れていたというのが良く分かります。
一般的には「天災や政情不安をなくし、平和を達成するため」といわれていますが、そもそも「天災や政情不安」を引き起こした原因は何だったのか、ということを考えれば導き出せる結論です。ただ、「タタリで造った」なんてみっともなくて歴史書に書けませんから、記録には残っていませんが。
> 国分寺は私の住んでいる近所にも安芸国分寺というのがありますよ。
> ちょっと恐れで肝っ玉は小さかった?かもしれないけど、盧舎那仏を建てたり、全国に国分寺、国分尼寺を建てたり、権力はかなり強かったんですね。
私の近所にも「国分寺」という地名が残っています。
当時の朝廷は、聖武天皇のご器量はともかくとして(笑)、何といっても我が国最大の権力者という面もありましたからね。そうでなければ大仏造立なんて大事業はできませんよね。
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 ご質問の件ですが、まずタタリに関しては長屋王のものと断定できると思います。長屋王の変の後に藤原四兄弟が疫病で「殺されて」大騒ぎになった翌年、長屋王の反逆を密告したとされる人物が暗殺されています。犯人は長屋王ゆかりの者で、人物も動機もはっきりしているのに罪に問われませんでした。殺人という大罪を犯しながら放免されたということは、その当時から「長屋王は無実だった」と思われていたからとしか考えられません。
「タタリが怖いのなら悪いことをしなければいいのに」というお考え、至極ごもっともです。ただ、人間というもの、邪魔な存在はこの世から消し去りたいという欲望が芽生えてしまうという非情な一面もあります。そして、そんな無茶なことが可能であり、さらにもみ消すこともできる地位にある人間がそんなことを思えばどうなるのか…。心理学の問題でもありますが、恐ろしいですね。
遷都の理由ですが、恭仁京への遷都については、自己の本拠地に近いからという理由で橘諸兄が勧めたのではないか、といわれています。一方、そうはさせじと藤原氏らの勢力が動いて一種の綱引き状態になり、結果として短期間に次々と遷都したのではないか、と私は見ております。いずれにせよ、タタリを恐れられた聖武天皇の「心の隙」を重臣たちが突きまくっての身勝手な出来事、という印象がありますね。
尚、以上の件については、話が複雑になるのと、あまりにも専門的になってしまうので、講座本文では敢えて触れずにいたことをお断りします。
スカイラインV35 啓蒙思想の影響か何か知りませんが、怨霊信仰(思想?)も歴史学でタブー視されてきましたよね。これも偏見無く、きちんと理路整然と学問的に研究されれば、日本史もかなりすっきりすると思うのですが。。。 歴史は奥が深いですね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 仰ることは私も同感です。我が国に古くから伝わる「怨霊信仰」を除外した段階で、歴史の研究は訳が分からなくなってしまったところがあると思います。何でも幾何学や唯物論で片付けようとする今の考えは、私に言わせれば異常としか思えないですね。そんな研究では歴史の奥深さなど理解できるはずがないでしょうに。
ぴーち こんばんは!
今日は外出しておりましたので、遅くなりすみません^^;
私の県にも「国分寺」という地名がございます
そうですか、この頃の名残が今も脈々と受け継がれているんですね^^
そういえば「国分」という名字の方がいらっしゃいますが、
やはり何らかの因果関係があるのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、私もよく遅くなりますので、お気になさらないで下さいね(^^♪
やっぱり「国分寺」や「国分」に関する地名は至るところにあるようですね。人名は…どうなんでしょうか? 関連性が全くないとはいえないとは思いますが…。
よっしー ちゃ、ちゃんと読んでるんですよ!ただコメントする時間が無いだけで・・・(ぉぃ
今度はまた藤原氏ではなくなってしまいましたね。 とはいえ同じ党の中にも派閥があるみたく、反藤原同士で争うかもしれないかな、一概にも次は藤原氏とはいえないか。これは次が楽しみです。
にしても都を移す理由はよく分かりますが、こうも移されると覚えるのが大変>< 受験生を苦しめますね、これは。平和な時代を希望します←
やはりあの国分は、国分寺でよかったんですね。結構見るので気になってました。。。
よっしーさんへ
黒田裕樹 > ちゃ、ちゃんと読んでるんですよ!ただコメントする時間が無いだけで・・・(ぉぃ
足跡で分かってますからお気になさらないで下さいね(笑)。
> 今度はまた藤原氏ではなくなってしまいましたね。 とはいえ同じ党の中にも派閥があるみたく、反藤原同士で争うかもしれないかな、一概にも次は藤原氏とはいえないか。これは次が楽しみです。
「派閥同士の争い」ですか。確かに今の政党みたいなところがありますよね。次はどちらでしょうか?
> にしても都を移す理由はよく分かりますが、こうも移されると覚えるのが大変>< 受験生を苦しめますね、これは。平和な時代を希望します←
そうですね。でも受験向きということは、今回でしっかりと理解できれば逆にチャンスですから、ぜひお役に立てていただければとも思います。
> やはりあの国分は、国分寺でよかったんですね。結構見るので気になってました。。。
「国分」という地名は多いですからね。細かいのを含めれば、大阪だけでも結構ありますし。
武力による2大政党の政権交代みたいです。
となるとこの後はまた藤原氏ですか?
それにしても政権交代もですが、聖武天皇の時代、平城京から恭仁京~難波宮~紫香楽宮と相次いで都を遷されました、って、たたりを恐れるというのは分かるけど、何か受験生泣かせみたい(^_^;)
ただ、あの巨大な奈良の大仏、盧舎那仏は長屋王のたたりを鎮めるためだったとは知りませんでした。よほど恐れていたというのが良く分かります。
国分寺は私の住んでいる近所にも安芸国分寺というのがありますよ。
ちょっと恐れで肝っ玉は小さかった?かもしれないけど、盧舎那仏を建てたり、全国に国分寺、国分尼寺を建てたり、権力はかなり強かったんですね。
> 武力による2大政党の政権交代みたいです。
いわれてみればそのとおりですね。もっとも、平和的な選挙ではなく、命のやり取りを伴うのが何とも…。
> となるとこの後はまた藤原氏ですか?
さぁ、どうでしょう?(笑)
「奈良時代の政治」の項目はもうしばらく続きますので、お楽しみに(^_^)v
> それにしても政権交代もですが、聖武天皇の時代、平城京から恭仁京~難波宮~紫香楽宮と相次いで都を遷されました、って、たたりを恐れるというのは分かるけど、何か受験生泣かせみたい(^_^;)
項目重視の受験日本史にはもってこいの材料ですからね。それで「知ったつもり」になってもらっては困りますが…。
> ただ、あの巨大な奈良の大仏、盧舎那仏は長屋王のたたりを鎮めるためだったとは知りませんでした。よほど恐れていたというのが良く分かります。
一般的には「天災や政情不安をなくし、平和を達成するため」といわれていますが、そもそも「天災や政情不安」を引き起こした原因は何だったのか、ということを考えれば導き出せる結論です。ただ、「タタリで造った」なんてみっともなくて歴史書に書けませんから、記録には残っていませんが。
> 国分寺は私の住んでいる近所にも安芸国分寺というのがありますよ。
> ちょっと恐れで肝っ玉は小さかった?かもしれないけど、盧舎那仏を建てたり、全国に国分寺、国分尼寺を建てたり、権力はかなり強かったんですね。
私の近所にも「国分寺」という地名が残っています。
当時の朝廷は、聖武天皇のご器量はともかくとして(笑)、何といっても我が国最大の権力者という面もありましたからね。そうでなければ大仏造立なんて大事業はできませんよね。
「タタリが怖いのなら悪いことをしなければいいのに」というお考え、至極ごもっともです。ただ、人間というもの、邪魔な存在はこの世から消し去りたいという欲望が芽生えてしまうという非情な一面もあります。そして、そんな無茶なことが可能であり、さらにもみ消すこともできる地位にある人間がそんなことを思えばどうなるのか…。心理学の問題でもありますが、恐ろしいですね。
遷都の理由ですが、恭仁京への遷都については、自己の本拠地に近いからという理由で橘諸兄が勧めたのではないか、といわれています。一方、そうはさせじと藤原氏らの勢力が動いて一種の綱引き状態になり、結果として短期間に次々と遷都したのではないか、と私は見ております。いずれにせよ、タタリを恐れられた聖武天皇の「心の隙」を重臣たちが突きまくっての身勝手な出来事、という印象がありますね。
尚、以上の件については、話が複雑になるのと、あまりにも専門的になってしまうので、講座本文では敢えて触れずにいたことをお断りします。
今日は外出しておりましたので、遅くなりすみません^^;
私の県にも「国分寺」という地名がございます
そうですか、この頃の名残が今も脈々と受け継がれているんですね^^
そういえば「国分」という名字の方がいらっしゃいますが、
やはり何らかの因果関係があるのでしょうか?
やっぱり「国分寺」や「国分」に関する地名は至るところにあるようですね。人名は…どうなんでしょうか? 関連性が全くないとはいえないとは思いますが…。
今度はまた藤原氏ではなくなってしまいましたね。 とはいえ同じ党の中にも派閥があるみたく、反藤原同士で争うかもしれないかな、一概にも次は藤原氏とはいえないか。これは次が楽しみです。
にしても都を移す理由はよく分かりますが、こうも移されると覚えるのが大変>< 受験生を苦しめますね、これは。平和な時代を希望します←
やはりあの国分は、国分寺でよかったんですね。結構見るので気になってました。。。
足跡で分かってますからお気になさらないで下さいね(笑)。
> 今度はまた藤原氏ではなくなってしまいましたね。 とはいえ同じ党の中にも派閥があるみたく、反藤原同士で争うかもしれないかな、一概にも次は藤原氏とはいえないか。これは次が楽しみです。
「派閥同士の争い」ですか。確かに今の政党みたいなところがありますよね。次はどちらでしょうか?
> にしても都を移す理由はよく分かりますが、こうも移されると覚えるのが大変>< 受験生を苦しめますね、これは。平和な時代を希望します←
そうですね。でも受験向きということは、今回でしっかりと理解できれば逆にチャンスですから、ぜひお役に立てていただければとも思います。
> やはりあの国分は、国分寺でよかったんですね。結構見るので気になってました。。。
「国分」という地名は多いですからね。細かいのを含めれば、大阪だけでも結構ありますし。