勝静がこれらのような出世街道(しゅっせかいどう)を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であったこともあると思われますが、やはり方谷による藩政改革の成功によって藩財政が豊かになったことや、それに伴って勝静自身の評判も高まったことが考えられます。
しかし、時は幕末の動乱期であり、やがて大政奉還(たいせいほうかん)が行われて戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まると、老中首座(しゅざ)である勝静を藩主とする備中松山藩はいわゆる「朝敵(ちょうてき)」となり、朝廷から松山藩の征討(せいとう)を任じられた備前岡山藩(びぜんおかやまはん)など近隣(きんりん)の藩の大軍が押し寄せてくるという騒(さわ)ぎになりました。
このとき、藩主勝静は旧幕府軍側の立場で参戦して不在であり、重臣たちは抗戦(こうせん)か降伏(こうふく)かをめぐって激(はげ)しい議論が続きましたが、最後には方谷が独断で降伏を決めました。
「戦争になって一番困るのが藩民である以上、彼らの生命を救うのが我が天命である」。場合によっては自身の切腹(せっぷく)も辞さないという決死の覚悟でした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
なるほど、方谷氏は主と同じ権限を与えられていた事で、独断で判断したのですね。
降伏という決断が藩民にとっては良い結果となったとしても、方谷氏自身にとってはその判断は本当に良かったのでしょうか。。
その後の行方が気になります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
方谷の判断は正しかったのかどうか、次回の更新をお待ちください。
なるほど、方谷氏は主と同じ権限を与えられていた事で、独断で判断したのですね。
降伏という決断が藩民にとっては良い結果となったとしても、方谷氏自身にとってはその判断は本当に良かったのでしょうか。。
その後の行方が気になります。
応援凸
方谷の判断は正しかったのかどうか、次回の更新をお待ちください。