里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆(かんたん)した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出(はいしゅつ)しているところに軍政の神髄が存在することを理解しました。
後に久坂は元治(げんじ)元年(=1864年)の禁門(きんもん)の変において負傷して自刃(じじん)しますが、生前(せいぜん)の久坂から方谷の話を聞いていたとされる高杉晋作(たかすぎしんさく)によって「奇兵隊(きへいたい)」が組織され、幕末における長州藩を軍事面から支えましたが、方谷による里正隊は奇兵隊よりもおよそ10年近くも早く結成されていたことになります。
これらのように、方谷による藩政改革の成果は全国的な評判を呼んで他藩の改革にも多大な影響を与えましたが、それは同時に備中松山藩自体にも数奇(すうき)な運命をもたらすことになりました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
奇兵隊の方は確かに記憶に残っていますが、
方谷氏の里正隊の方は今回黒田さんの記事にて初めて知ることが出来ました。ありがとうございます。
しかしながら、高校の教科書でも習った記憶が無いのですが(私が忘れているだけかも知れませんが(^^ゞ)
何故にこれほどまでの功績を残した方なのに、
もっと人々の記憶に残るほどの教育がされなかったのか疑問です・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 山田方谷は現在の歴史教科書でも紹介されておりません。
その理由は色々ありますが、また後半でお知らせしたいと思います。
奇兵隊の方は確かに記憶に残っていますが、
方谷氏の里正隊の方は今回黒田さんの記事にて初めて知ることが出来ました。ありがとうございます。
しかしながら、高校の教科書でも習った記憶が無いのですが(私が忘れているだけかも知れませんが(^^ゞ)
何故にこれほどまでの功績を残した方なのに、
もっと人々の記憶に残るほどの教育がされなかったのか疑問です・・
応援凸
その理由は色々ありますが、また後半でお知らせしたいと思います。