大正13(1924)年にいわゆる護憲三派(ごけんさんぱ)が与党となって成立した加藤高明(かとうたかあき)内閣以来、我が国では衆議院で多数を占(し)める政党のトップが内閣を組織するという、いわゆる憲政の常道(じょうどう)が続きました。
しかし、そんな政党内閣の陰(かげ)では、衆議院での第一党をめざした政党同士の抗争(こうそう)が果てしなく繰(く)り広げられており、その国民不在の政治ぶりは多くの非難(ひなん)を浴びていました。
一方、三井(みつい)と立憲政友会(りっけんせいゆうかい)、三菱(みつびし)と立憲民政党(りっけんみんせいとう)といった財閥(ざいばつ)と政党との結びつきが世間によく知られるようになっており、こうした政治と財界との癒着(ゆちゃく)にも国民の批判が高まっていました。もっとも、これは普通選挙法(ふつうせんきょほう)の成立によって選挙費用が増大し、財閥などからの献金に頼らざるを得ないという事情もあったのですが―。
また、当時の我が国は金融恐慌(きんゆうきょうこう)や昭和恐慌(しょうわきょうこう)など不況(ふきょう)の真(ま)っ只中(ただなか)であり、多くの国民が生活に苦しんでいましたが、そんな中で財閥が為替相場(かわせそうば)を利用して巨額(きょがく)の富(とみ)を得たことが、国民の財界への不信にさらに拍車(はくしゃ)をかけることになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 私は一党独裁が政財界の癒着と社会の硬直化を生むと思い、二大政党制を歓迎しましたが、今にしてみれば55年体制が安定と風通しの良さを実現していました。
安定した一党独裁でありながら共産主義諸国のようには澱まず、議席の半数を割拠する野党が政権の詰問機関のような役割を結果的に果たしていた。
私が理想とする適度に資本主義、適度に社会主義、適度に封建主義、適度に民主主義がバランスよく具現した時代でした。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 今回は55年体制については触れておりませんが、仰ることは私も理解できます。
安定した一党独裁でありながら共産主義諸国のようには澱まず、議席の半数を割拠する野党が政権の詰問機関のような役割を結果的に果たしていた。
私が理想とする適度に資本主義、適度に社会主義、適度に封建主義、適度に民主主義がバランスよく具現した時代でした。