しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐にあって難破してしまいました。5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた清河はこれを拒否しました。しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
鑑真は我が国に戒律の他に彫刻や薬草の知識を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して我が国に留まり、763年に76歳の生涯を終えました。彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅より下になっていることに対して猛烈に抗議して、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。席次の件といい、鑑真を密かに渡日させたことといい、当時の外交官は気骨(きこつ)ある人物でないと務まらなかったのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
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kenちゃんマイド 彼は何故日本に来たかったのですか?彼の渡日への情熱はどこから出てきているんでしょうか。戒律をさずけるのはそんなに大切なことでしょうか。
たろー 鑑真が目が見えなかったとは知りませんでした
よければ相互リンクしませんか?
さすらい こんばんは。
なるほど、外交は大事ですよね。
それぞれの苦労があって
今があるような気がします。
現代でも気骨ある人物が欲しいものです。
応援♪
智里 何年か前に道立近代美術館で国宝唐招提寺鑑真像を見たことが有ります。
日本仏教と彫刻?だったか忘れたけど、空海の書や運慶、快慶の仏像を見ました。
国宝唐招提寺鑑真像が最初の肖像彫刻とは知らなかったな~。
貴重な1品を見ることができたんですね♪
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 戒律とは仏教において守るべきものとされた道徳や規則のことです。仏教が我が国に伝来した際に、戒律の重要度が正しく伝わっていなかったために、不十分なものになっていました。
これではいけないと、我が国の僧2人が唐へ渡り、高僧である鑑真に、我が国に戒律を伝えてくれるよう懇願したのです。
2人の厚い思いに心動かされた鑑真は、弟子たちに日本へ行くよう問いかけましたが、中華思想の影響もあって、野蛮とみなされた我が国へ命がけで渡ろうとする者はいませんでした。
弟子たちの情けなさと、仏法を守るためには死をもいとわない崇高な精神が、鑑真をして「私自らが行く」と言わしめたと考えられています。
たろーさんへ
黒田裕樹 > 鑑真が目が見えなかったとは知りませんでした
そうなんですね。昔から結構有名な話なんですが、最近では完全に失明していなかったという説もあるようです。
> よければ相互リンクしませんか?
有難うございます。喜んでお受けしますので、今後とも宜しくお願いします。
さすらいさんへ
黒田裕樹 いつも有難うございます。
時には我が国の運命をも決定付けてしまう大切な外交ですから、いつの世も外交官には大伴古麻呂のような精神を持ち続けて欲しいものですね。
智里さんへ
黒田裕樹 鑑真像の存在は知っていても、それが最初の肖像彫刻であることは案外知らないんですよね。
北海道でご覧になれて良かったですね(^_^)v
初めまして。
なみなみ ご訪問ありがとうございます。
日本史が解りやすくまとめられてあって、
いつも興味深く読んでおります。
当時世界一の先進国といっていい中国の高僧が、
どうして蛮族の住む日本へ行こうと思ったんでしょう?
彼をそこまで動かしたモチベーションってなんだったんでしょう?不思議です。
現状に満足しない、チャレンジ精神あふれる人だったんでしょうか。
この方の人となりを、知りたくなリました。
なみなみさんへ
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます。なみなみさんの笑い話はいつも楽しく拝見させていただいております。
別の方のコメ返にも書かせていただきましたが、遠く離れた国から命がけで航海して、自分が得意とする戒律を教えて欲しいという我が国の2人の留学僧の必死の願いに、仏教というひとつの道を究めた人間の使命感がメラメラと燃えたぎったのではないかと考えられます。
このとき既に50代に入っていた鑑真にとって、残りの人生を、自分という存在を待ってくれている我が国にささげよう、という男気もあったのかもしれませんね。
いずれにせよ、彼の来日で我が国の仏教は多大な変化を遂げたばかりでなく、彫刻や薬草の世界でも貢献があったわけですから、鑑真の存在感は、現代の我々が想像するよりも遥かに大きなものなのかもしれません。
ぴーち こんばんは!
鑑真が盲目ということは存じてましたが、
5度も渡日をされての事。。その苦難の日々がいかに
壮絶であったことか・・
察するに余りあるものですね。
そうですか~
鑑真の彫刻は日本最初だったのですね!
教科書ではそのお姿を何度か拝見していましたが、
肝心な事実は記憶しておりませんでした^^;
いつも勉強になります^^ありがとうございます!
アキ あの~・・・
ものすごく幼稚な質問で恥ずかしいのですが・・・
弟子達はなんで鑑真の渡日をそこまでイヤがったのでしょう。
密告て!
帰ってこなくなるかも って懸念から?
師匠が行く言うてんのに?
だったら自分ら行けばええやん と思うのですがwww
あぁ、読み返しても恥ずかしいほど稚拙な内容&文章・・・。
でもこんな生徒も中にはいますでしょう(笑)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鑑真が渡日を決意したのが742年で、6度目の挑戦で悲願を達成したのが753年ですから、何と11年もかかっているんですよね。失明状態になりながらも、いささかも衰えることのなかった彼の執念には頭が下がります。高僧であるがゆえの精神面の強さかもしれませんね。
鑑真像が我が国最初の肖像彫刻であるということは、今の教科書でもほとんど記載がありませんからね。鑑真の人となりも、あまり書かれていませんし。これでは歴史が面白くなるはずがないと思います。
アキさんへ
黒田裕樹 いえいえ、どんな質問でも私の知る限りはお答えしますので、お気になさらずに(^^♪
弟子たちが鑑真を我が国に行かせたくなかったのは、
1.鑑真が我が国へ向かうことによって、余人を以って替え難い彼の才能の流出を惜しんだこと。
2.中華思想の影響で、我が国が野蛮な国と信じられており、そんな国に大切な師匠を行かせたくなかったこと。
3.唐の皇帝である玄宗も鑑真の渡航に難色を示していたこと。
以上が考えられます。1.や3.はともかく、2.はまさにアキさんの仰るとおりですよね。「嫌やったらお前らが行かんかい!」と(笑)。
そんな情けない(?)弟子たちに嫌気が差して、鑑真は我が国に新天地を求めたのかもしれませんね(これは私の勝手な想像ですので、信じないで下さいね)。
トレビアンです こんにちは。
初めてコメントします。
外交官については同感です。
日本の歴史上、外交官といえるのは日露戦争終結交渉をした小村寿太郎のみと言われていますもんね。
フランス語を知らないふりをして英語で交渉した知恵者ですもんね(*^_^*)
これからも楽しい歴史講義おねがいしますm(__)m
悠 コメントありがとうございました!
日本史は僕今高校で選択してます
宿題でわからないトコあったら聞いてもいいですか?(笑
鑑真は中学校の時習いましたー
ここまで詳しくは知りませんでしたが・・・
これからもよろしくお願いします!
紗那 こんにちは。
初めてお目にかかります。
えっと、記事を読んでるとすごい勉強になります。
鑑真については、学校で勉強しているとはいえやはり内容として薄いですよね。だからこういう話を聞くのが好きなんです。
阿倍仲麻呂と同じときの船に乗っていたのですか。仲麻呂は確か結局帰れなかったんですよね?
外交官さんはやはり、今も昔も大変なんですね。
トレビアンさんへ
黒田裕樹 ご訪問&コメント有難うございます。
外交官にとって大事なことは、いかにして国益を護るのか、これに尽きます。
そのためには、仰られた小村寿太郎のようにハッタリをかますこともいとわず、時には小野妹子のように死をもかえりみず…。
我が国にも気鋭の外交官が欲しいところですよね。
お言葉有難うございます。こちらこそ宜しくお願いします。
悠さんへ
黒田裕樹 こちらこそご訪問&コメント有難うございます!
> 日本史は僕今高校で選択してます
> 宿題でわからないトコあったら聞いてもいいですか?(笑
私で分かる範囲でしたら(笑)。ただ、その場合は秘コメの方がいいかもしれませんね(^^ゞ
> 鑑真は中学校の時習いましたー
> ここまで詳しくは知りませんでしたが・・・
おそらく高校でも普通はここまで学ばないのではないかと思います。受験至上主義の教育では余計な話になってしまいますので…。だから日本史が面白くないといわれるんですが。
> これからもよろしくお願いします!
こちらこそ宜しくお願いしますね(^_^)v
紗那さんへ
黒田裕樹 はじめまして。ブログへのご訪問&コメント有難うございます。
鑑真の話にご注目いただいて有難く思います。歴史に名を残す人物というのは、何がしかの伝説を残しているものです。
阿倍仲麻呂と鑑真は同時期に我が国へ向かったのですが、鑑真の乗った船が無事に我が国にたどり着いた一方で、仲麻呂の船は無情にも難破してしまい、仲麻呂はついに我が国へ帰りつくことができませんでした。このあたりの経緯は別記事に詳しく書いておりますので、こちらも是非ご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-165.html
本来の外交官の仕事は、国益を護るためにはどんなこともいとわないという無私の心境でないとつとまりません。その意味でも、我が国のメンツを守るために敢えて大喧嘩をした古麻呂の行為は、決して間違っていないと思います。
よければ相互リンクしませんか?
なるほど、外交は大事ですよね。
それぞれの苦労があって
今があるような気がします。
現代でも気骨ある人物が欲しいものです。
応援♪
日本仏教と彫刻?だったか忘れたけど、空海の書や運慶、快慶の仏像を見ました。
国宝唐招提寺鑑真像が最初の肖像彫刻とは知らなかったな~。
貴重な1品を見ることができたんですね♪
これではいけないと、我が国の僧2人が唐へ渡り、高僧である鑑真に、我が国に戒律を伝えてくれるよう懇願したのです。
2人の厚い思いに心動かされた鑑真は、弟子たちに日本へ行くよう問いかけましたが、中華思想の影響もあって、野蛮とみなされた我が国へ命がけで渡ろうとする者はいませんでした。
弟子たちの情けなさと、仏法を守るためには死をもいとわない崇高な精神が、鑑真をして「私自らが行く」と言わしめたと考えられています。
そうなんですね。昔から結構有名な話なんですが、最近では完全に失明していなかったという説もあるようです。
> よければ相互リンクしませんか?
有難うございます。喜んでお受けしますので、今後とも宜しくお願いします。
時には我が国の運命をも決定付けてしまう大切な外交ですから、いつの世も外交官には大伴古麻呂のような精神を持ち続けて欲しいものですね。
北海道でご覧になれて良かったですね(^_^)v
日本史が解りやすくまとめられてあって、
いつも興味深く読んでおります。
当時世界一の先進国といっていい中国の高僧が、
どうして蛮族の住む日本へ行こうと思ったんでしょう?
彼をそこまで動かしたモチベーションってなんだったんでしょう?不思議です。
現状に満足しない、チャレンジ精神あふれる人だったんでしょうか。
この方の人となりを、知りたくなリました。
別の方のコメ返にも書かせていただきましたが、遠く離れた国から命がけで航海して、自分が得意とする戒律を教えて欲しいという我が国の2人の留学僧の必死の願いに、仏教というひとつの道を究めた人間の使命感がメラメラと燃えたぎったのではないかと考えられます。
このとき既に50代に入っていた鑑真にとって、残りの人生を、自分という存在を待ってくれている我が国にささげよう、という男気もあったのかもしれませんね。
いずれにせよ、彼の来日で我が国の仏教は多大な変化を遂げたばかりでなく、彫刻や薬草の世界でも貢献があったわけですから、鑑真の存在感は、現代の我々が想像するよりも遥かに大きなものなのかもしれません。
鑑真が盲目ということは存じてましたが、
5度も渡日をされての事。。その苦難の日々がいかに
壮絶であったことか・・
察するに余りあるものですね。
そうですか~
鑑真の彫刻は日本最初だったのですね!
教科書ではそのお姿を何度か拝見していましたが、
肝心な事実は記憶しておりませんでした^^;
いつも勉強になります^^ありがとうございます!
ものすごく幼稚な質問で恥ずかしいのですが・・・
弟子達はなんで鑑真の渡日をそこまでイヤがったのでしょう。
密告て!
帰ってこなくなるかも って懸念から?
師匠が行く言うてんのに?
だったら自分ら行けばええやん と思うのですがwww
あぁ、読み返しても恥ずかしいほど稚拙な内容&文章・・・。
でもこんな生徒も中にはいますでしょう(笑)
鑑真像が我が国最初の肖像彫刻であるということは、今の教科書でもほとんど記載がありませんからね。鑑真の人となりも、あまり書かれていませんし。これでは歴史が面白くなるはずがないと思います。
弟子たちが鑑真を我が国に行かせたくなかったのは、
1.鑑真が我が国へ向かうことによって、余人を以って替え難い彼の才能の流出を惜しんだこと。
2.中華思想の影響で、我が国が野蛮な国と信じられており、そんな国に大切な師匠を行かせたくなかったこと。
3.唐の皇帝である玄宗も鑑真の渡航に難色を示していたこと。
以上が考えられます。1.や3.はともかく、2.はまさにアキさんの仰るとおりですよね。「嫌やったらお前らが行かんかい!」と(笑)。
そんな情けない(?)弟子たちに嫌気が差して、鑑真は我が国に新天地を求めたのかもしれませんね(これは私の勝手な想像ですので、信じないで下さいね)。
初めてコメントします。
外交官については同感です。
日本の歴史上、外交官といえるのは日露戦争終結交渉をした小村寿太郎のみと言われていますもんね。
フランス語を知らないふりをして英語で交渉した知恵者ですもんね(*^_^*)
これからも楽しい歴史講義おねがいしますm(__)m
日本史は僕今高校で選択してます
宿題でわからないトコあったら聞いてもいいですか?(笑
鑑真は中学校の時習いましたー
ここまで詳しくは知りませんでしたが・・・
これからもよろしくお願いします!
初めてお目にかかります。
えっと、記事を読んでるとすごい勉強になります。
鑑真については、学校で勉強しているとはいえやはり内容として薄いですよね。だからこういう話を聞くのが好きなんです。
阿倍仲麻呂と同じときの船に乗っていたのですか。仲麻呂は確か結局帰れなかったんですよね?
外交官さんはやはり、今も昔も大変なんですね。
外交官にとって大事なことは、いかにして国益を護るのか、これに尽きます。
そのためには、仰られた小村寿太郎のようにハッタリをかますこともいとわず、時には小野妹子のように死をもかえりみず…。
我が国にも気鋭の外交官が欲しいところですよね。
お言葉有難うございます。こちらこそ宜しくお願いします。
> 日本史は僕今高校で選択してます
> 宿題でわからないトコあったら聞いてもいいですか?(笑
私で分かる範囲でしたら(笑)。ただ、その場合は秘コメの方がいいかもしれませんね(^^ゞ
> 鑑真は中学校の時習いましたー
> ここまで詳しくは知りませんでしたが・・・
おそらく高校でも普通はここまで学ばないのではないかと思います。受験至上主義の教育では余計な話になってしまいますので…。だから日本史が面白くないといわれるんですが。
> これからもよろしくお願いします!
こちらこそ宜しくお願いしますね(^_^)v
鑑真の話にご注目いただいて有難く思います。歴史に名を残す人物というのは、何がしかの伝説を残しているものです。
阿倍仲麻呂と鑑真は同時期に我が国へ向かったのですが、鑑真の乗った船が無事に我が国にたどり着いた一方で、仲麻呂の船は無情にも難破してしまい、仲麻呂はついに我が国へ帰りつくことができませんでした。このあたりの経緯は別記事に詳しく書いておりますので、こちらも是非ご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-165.html
本来の外交官の仕事は、国益を護るためにはどんなこともいとわないという無私の心境でないとつとまりません。その意味でも、我が国のメンツを守るために敢えて大喧嘩をした古麻呂の行為は、決して間違っていないと思います。