造船や航海技術の未熟もあって、遣唐使による航海は命がけであり、海上での遭難(そうなん)も度々ありました。それでも大陸の先進的な政治制度や文化を学ぶために多くの留学生が唐へ渡り、特に吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)は、帰国後に我が国の政界で活躍しました。
7世紀には我が国との国交を回復させた新羅でしたが、8世紀に入ると、新羅が我が国と対等の態度を示すようになり、従前から属国扱いしていた我が国との関係に緊張が走りました。しかし、貿易の利を求めて民間商人たちによる交易が引き続き行われました。
また698年、旧高句麗領を含む中国東北部に渤海(ぼっかい)が建国されました。渤海は唐や新羅と対立することが多く、支援を求めて我が国とは友好的な関係が結ばれ、日本海では交易が活発に行われました。いわゆる「敵の敵は味方」ですね。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
日本にとって
唐や新羅との交流は
良きものが多かったですね。
現代でも仲良くできれば良いですね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 この時代は唐とは文化の交流(というより吸収かもしれませんが)、新羅とは対唐路線での協調という重要なテーマがありましたので、友好関係が不可欠でもありました。
現代のようなギクシャクした(?)関係ではなく、利害がからんでいたとしても「大人」の関係でいてほしいものですね。
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日本にとって
唐や新羅との交流は
良きものが多かったですね。
現代でも仲良くできれば良いですね。
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現代のようなギクシャクした(?)関係ではなく、利害がからんでいたとしても「大人」の関係でいてほしいものですね。