満州における排日運動(はいにちうんどう)が強まるに従って、日本人と中国人との間の衝突(しょうとつ)が増加し続けたほか、昭和4(1929)年11月にはソ連が東満州に侵入(しんにゅう)して東支鉄道(とうしてつどう、東清鉄道=とうしんてうどう、の別名)を奪(うば)い取るなど、満州に対するソ連の軍事的脅威(きょうい)も本格化しました。
関東州(かんとうしゅう)や満鉄の警備を任務としていた我が国の関東軍(かんとうぐん)は、日本政府を通じてこれらの事態を打開しようとしましたが、当時は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣による協調外交(きょうちょうがいこう)が復活しており、武力に頼らずに話し合いによる解決を目指そうとしていました。
しかし、そのような弱腰(よわごし)な姿勢は相手を増長させるばかりとなり、昭和6(1931)年に入ると、我が国の参謀本部(さんぼうほんぶ)の参謀が満州とソ連の国境付近を調査旅行中に張学良の軍隊に殺害された中村大尉事件(なかむらたいいじけん)や、満州の長春(ちょうしゅん)の北にあった万宝山(まんぽうざん)で朝鮮半島からの入植者(当時は日本人)と中国人とが水利権や耕作権をめぐって衝突した万宝山事件が起きました。
中国側による度重なる不法行為やそれらを黙(だま)って見過ごそうとした幣原外交の軟弱(なんじゃく)ぶりに業(ごう)を煮(に)やした石原莞爾(いしわらかんじ)ら一部の関東軍将校は、昭和6年9月18日に柳条湖(りゅうじょうこ)付近の鉄道線路の爆破(ばくは)事件を起こしました。これを柳条湖事件といいます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
確かに協調外交は、それ自体、平和的外交を目指すには最良の方法なのだと思いますが、
野望の強い相手には時として、その方法は無力と化してしまいますね。
話し合いで解決出来るような次元の高さに
世界の国々が普通に持てるようになるには、
これからもまだまだ苦難が続くでしょうけれど、
次元の低い考えには、その方法がいかに
間違いであるかということをしっかり
相手に判らせてあげる為に
時として毅然と立ち向かえる様な気概も持たなければいけなくなりますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
結果から見れば、協調外交は我が国の自己満足のためだけの政策でした。
それがある意味「最悪」の形で具象化したのが柳条湖事件だったわけですね。
確かに協調外交は、それ自体、平和的外交を目指すには最良の方法なのだと思いますが、
野望の強い相手には時として、その方法は無力と化してしまいますね。
話し合いで解決出来るような次元の高さに
世界の国々が普通に持てるようになるには、
これからもまだまだ苦難が続くでしょうけれど、
次元の低い考えには、その方法がいかに
間違いであるかということをしっかり
相手に判らせてあげる為に
時として毅然と立ち向かえる様な気概も持たなければいけなくなりますね。
応援凸
結果から見れば、協調外交は我が国の自己満足のためだけの政策でした。
それがある意味「最悪」の形で具象化したのが柳条湖事件だったわけですね。