そして710年、元明天皇は都をそれまでの藤原京から奈良の平城京(へいじょうきょう)へと遷(うつ)されました。この後、平安京(京都)に遷都(せんと)されるまでの八十余年間を奈良時代(ならじだい)といいます。
平城京は唐の首都である長安にならってつくられており、碁盤(ごばん)の目(め)状に東西南北に走る道路で整然と区画されていました。これを条坊制(じょうぼうせい)といいます。
平城京の内部には、貴族などの邸宅のほか、飛鳥から移された大安寺(だいあんじ)や薬師寺(やくしじ)などの寺院や、市司(いちのつかさ)が管理した官営の市(いち)が設けられ、大いににぎわいました。
市では、地方から運ばれた特産物や、官吏(かんり)たちに現物給与された布や糸などが交換されました。尚、市は左京(さきょう)と右京(うきょう)に分かれており、それぞれ東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)と呼ばれました。




いつも有難うございます。
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オバrev 710年にいよいよ平城京に遷都ですね。私は「なんと大きな平城」と覚えています。
それにしても、これだけの大事業をやりとげた元明天皇は、女性でありながらかなりのやり手だったか、やり手のブレーンがいなんですかね。
大宝律令に関与した藤原不比等は、このころかなり実力を持っていたんでしょうか?
ぴーち こんばんは!
元明天皇は中継ぎとしての天皇なのですね!
どうしても、歴史上で注目されるのは、始めと終わり
くらいで(その時代の)、中継ぎというのはあまり浮上し辛い存在だと
思うのですが、(私の偏見の解釈ですので、間違っていたら、訂正お願いします^^)中継ぎがあってこそ、その時代が存在するのでしょうから、考えてみれば、どの天皇も
それなりに注目されて当たり前なのでしょうね^^
碁盤の目のような道路整備は、唐をモデルにしたのですね!忘れかけていた記憶が少し蘇りました^^
それでは、応援です凸
また、お邪魔しますね^^
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 710年にいよいよ平城京に遷都ですね。私は「なんと大きな平城」と覚えています。
はい、今日からいよいよ奈良時代です。私も同じような覚え方だったと記憶しています。
> それにしても、これだけの大事業をやりとげた元明天皇は、女性でありながらかなりのやり手だったか、やり手のブレーンがいなんですかね。
> 大宝律令に関与した藤原不比等は、このころかなり実力を持っていたんでしょうか?
元明天皇の実力もさることながら、推古天皇が聖徳太子に政治の全権を任せたように、女帝に特有の「適材適所」の能力が高かったと思われます。
藤原不比等は確かに実力者でした。この件についてはもうしばらく後に取り上げることになります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 プロ野球では、中継ぎの投手の出来次第で試合の展開が決まりますよね。それと同じように、いわゆる「中継ぎの天皇」の存在感はそれなりに大きかったと思いますよ。
2000年以上の長きにわたって男系で継承し続けている奇跡の血統である皇室も、今回の元明天皇のように、女帝による中継ぎが存在していればこそです。また、古代においては、女帝がご健在のときに色々な出来事が起きているのも大きな特徴で、それだけ価値のある「中継ぎ」であったと考えられますね。
奈良時代の頃は、まだまだ中国に学ぶことが多い時代でしたから、都の造りも唐の長安にならったんですよね(シャレではないですよ)。
応援有難うございます!
東洋劇場 おはようございます!
そうでした、納豆たべたのは平城京でしたね。
『平城京で納豆(710)食べた…』
そうやって覚えた記憶があります。
☆
東洋劇場さんへ
黒田裕樹 なるほど、納豆(710)ですか。粘り強く繰り返せば覚えられそうですね(笑)。
それにしても色んな語呂合わせがあるもんですねぇ。有難うございます。
それにしても、これだけの大事業をやりとげた元明天皇は、女性でありながらかなりのやり手だったか、やり手のブレーンがいなんですかね。
大宝律令に関与した藤原不比等は、このころかなり実力を持っていたんでしょうか?
元明天皇は中継ぎとしての天皇なのですね!
どうしても、歴史上で注目されるのは、始めと終わり
くらいで(その時代の)、中継ぎというのはあまり浮上し辛い存在だと
思うのですが、(私の偏見の解釈ですので、間違っていたら、訂正お願いします^^)中継ぎがあってこそ、その時代が存在するのでしょうから、考えてみれば、どの天皇も
それなりに注目されて当たり前なのでしょうね^^
碁盤の目のような道路整備は、唐をモデルにしたのですね!忘れかけていた記憶が少し蘇りました^^
それでは、応援です凸
また、お邪魔しますね^^
はい、今日からいよいよ奈良時代です。私も同じような覚え方だったと記憶しています。
> それにしても、これだけの大事業をやりとげた元明天皇は、女性でありながらかなりのやり手だったか、やり手のブレーンがいなんですかね。
> 大宝律令に関与した藤原不比等は、このころかなり実力を持っていたんでしょうか?
元明天皇の実力もさることながら、推古天皇が聖徳太子に政治の全権を任せたように、女帝に特有の「適材適所」の能力が高かったと思われます。
藤原不比等は確かに実力者でした。この件についてはもうしばらく後に取り上げることになります。
2000年以上の長きにわたって男系で継承し続けている奇跡の血統である皇室も、今回の元明天皇のように、女帝による中継ぎが存在していればこそです。また、古代においては、女帝がご健在のときに色々な出来事が起きているのも大きな特徴で、それだけ価値のある「中継ぎ」であったと考えられますね。
奈良時代の頃は、まだまだ中国に学ぶことが多い時代でしたから、都の造りも唐の長安にならったんですよね(シャレではないですよ)。
応援有難うございます!
そうでした、納豆たべたのは平城京でしたね。
『平城京で納豆(710)食べた…』
そうやって覚えた記憶があります。
☆
それにしても色んな語呂合わせがあるもんですねぇ。有難うございます。