つまり、江戸時代の人々にとって「武蔵守」とは「徳川将軍」を意味していたとともに、敵役(かたきやく)の「高武蔵守師直」が舞台の上で「死ぬ」ことによって「将軍家の死」を表現していたのです。だからこそ大坂の人々は、仮名手本忠臣蔵を旧赤穂藩へのオマージュ(敬意を表すためにつくられた作品のこと)とするとともに、舞台の上での「将軍殺し」に喝采(かっさい)を送ったのでした。
大評判(だいひょうばん)となった仮名手本忠臣蔵は程(ほど)なく江戸でも歌舞伎として上演されるようになりましたが、徳川将軍のお膝元(ひざもと)の江戸では「将軍殺し」は無視されて旧赤穂藩へのオマージュのみが強調され、年月が経つとともに「元禄赤穂事件のドラマ化」が進みました。
やがて徳川幕府が滅んで明治の御代(みよ)となり、実名を出すタブーがなくなった頃には元禄赤穂事件は「忠臣蔵」という日本人好みの物語として発展を遂げただけでなく、天皇による「お墨付(すみつ)き」まで賜(たまわ)るようになったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
江戸時代の様に、他の国との接触が無かった時代だからこそ、日本国内で一度勃発した対立やら戦やらは、いつまでも人々に遺恨して、何かあればその恨みを晴らさんと息巻いていたのでしょうね。
現代の様に、外国との盛んな接触がある時代では、同じ国内で言い争いや、紛争などを起こしていれば、それこそ、外国から攻め込まれるチャンスとみなされてしまうので、それどころでは
ありませんがね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰るとおりですね。
国内が平和であったからこその対立なのかもしれません。
幕末においても最終的には天皇の名のもとに中央集権国家が紆余曲折を経て建設されていますからね。外国であれば内乱状態が続いてここまでたどり着くことはないでしょう。
江戸時代の様に、他の国との接触が無かった時代だからこそ、日本国内で一度勃発した対立やら戦やらは、いつまでも人々に遺恨して、何かあればその恨みを晴らさんと息巻いていたのでしょうね。
現代の様に、外国との盛んな接触がある時代では、同じ国内で言い争いや、紛争などを起こしていれば、それこそ、外国から攻め込まれるチャンスとみなされてしまうので、それどころでは
ありませんがね(^_^;)
応援凸
国内が平和であったからこその対立なのかもしれません。
幕末においても最終的には天皇の名のもとに中央集権国家が紆余曲折を経て建設されていますからね。外国であれば内乱状態が続いてここまでたどり着くことはないでしょう。