「天皇に対する侮辱は尊皇の士として絶対に許すことはできない」。そう固く誓ったからこそ、大石らは数々の試練を乗り越えた末(すえ)、翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良邸内へ討ち入り、上野介の首級(しゅきゅう)を挙げたのです。
ところで、「忠臣蔵」の世界では討ち入りの際に山鹿流(やまがりゅう)の陣太鼓(じんだいこ)を打ち鳴らしたことが有名ですが、実際には吉良邸の裏門(うらもん)を木槌(きづち)で打ち破る音か、あるいは銅鑼(どら)の音(ね)がそのように聞こえたからではないかとされており、真実のほどは分かりません。
しかし、大石をはじめ討ち入った四十七士の心の中には藩を挙げて学び続けた「山鹿流」の精神が息づいており、少なくとも各自(かくじ)の胸の奥で陣太鼓が高らかに鳴り響(ひび)いていたことは間違いありません。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
なるほど、ここまで読ませていただき
忠臣蔵の真相をより深く知る事が出来ました事、
感謝申し上げますm(__)m
人を殺める事は、自分も死ぬ覚悟がなければならないと言いますが、大石内蔵助は自分の命を掛けてでも、守りたい理由があったのですね。
ただ、そういう思いというのはなかなか世間には
伝わらないものですので、最高最善のパフォーマンスとして後世に語り継がれなければならないものだと思います。
そういう意味では、討ち入りをした中の一人を逃して、この事実を広く知らしめて欲しいという
大石内蔵助の心中は、自分たちの真意を分かって貰いたいという思いで満ち溢れていたのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそありがとうございます。
仰るとおり、忠臣蔵は決してリンチなどではなく、日本人として守るべきものを守るための生命をかけた戦いだったのです。
逃げたとされる寺坂吉右衛門には様々な説がありますね。
なるほど、ここまで読ませていただき
忠臣蔵の真相をより深く知る事が出来ました事、
感謝申し上げますm(__)m
人を殺める事は、自分も死ぬ覚悟がなければならないと言いますが、大石内蔵助は自分の命を掛けてでも、守りたい理由があったのですね。
ただ、そういう思いというのはなかなか世間には
伝わらないものですので、最高最善のパフォーマンスとして後世に語り継がれなければならないものだと思います。
そういう意味では、討ち入りをした中の一人を逃して、この事実を広く知らしめて欲しいという
大石内蔵助の心中は、自分たちの真意を分かって貰いたいという思いで満ち溢れていたのでしょうね。
応援凸
仰るとおり、忠臣蔵は決してリンチなどではなく、日本人として守るべきものを守るための生命をかけた戦いだったのです。
逃げたとされる寺坂吉右衛門には様々な説がありますね。