この事実一つだけでも天皇に対する幕府の姿勢(しせい)が分かるようなものですが、やがて幕府は天皇の譲位(じょうい)にまで口を挟(はさ)むようになりました。例えば、承応(じょうおう)3年11月(1655年1月)に18歳で即位(そくい)された後西天皇(ごさいてんのう)は若くして非常に英邁(えいまい、人格や才知が特別に優れていること)なお方(かた)でしたが、優秀な天皇の存在は朝廷を統制したい幕府にとっては都合の悪いことでした。
そこで、後西天皇のご在位時に伊勢神宮(いせじんぐう)や京都御所(きょうとごしょ)、あるいは江戸で大火事が相次いだ(特に江戸の火事は「明暦(めいれき)の大火」として有名です)ことから、「災害(さいがい)が多いのは天皇の徳が足りないからだ」という理由で寛文3(1663)年に強引に後西天皇を退位(たいい)させ、わずか10歳の霊元天皇(れいげんてんのう)を即位させました。
実は、この折(おり)に朝廷に対して退位の工作を行った人物こそが若き日の吉良上野介義央であり、後に彼はこの功績によって従四位(じゅしい)に昇進しています。
なお、京都御所は寛文元(1661)年に炎上(えんじょう)しましたが、その後の修復(しゅうふく)を幕府から命じられたのが赤穂藩主の浅野長直でした。長直は当時赤穂城(あこうじょう)を新築中でしたが、天守閣(てんしゅかく)の建造を断念(だんねん)までして御所を見事に再建(さいけん)しています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
そうですよね。
己の野望を達成する為には、いかなる事にも
首を突っ込んで、理不尽な理由をこじつけては
相手を失脚させようとしますね。
けれど、一度はそれで成功したと思われる事でも、天知る 地知る 我知る 人知るではありませんが、必ずや後に痛い目に遭わされるものですよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、野望実現のためには人間は手段を選びません。
ただ、それゆえに当人も同じ報いを受けることになります。
吉良上野介の場合も、その背後にいる勢力も同じなんですよね。
そうですよね。
己の野望を達成する為には、いかなる事にも
首を突っ込んで、理不尽な理由をこじつけては
相手を失脚させようとしますね。
けれど、一度はそれで成功したと思われる事でも、天知る 地知る 我知る 人知るではありませんが、必ずや後に痛い目に遭わされるものですよね。
応援凸
ただ、それゆえに当人も同じ報いを受けることになります。
吉良上野介の場合も、その背後にいる勢力も同じなんですよね。