「梶川と吉良が立ち話をしていると、誰かが吉良の後ろから『この間(かん)の遺恨(いこん)覚(おぼ)えたるか』と声をかけて斬(き)り付けてきた。驚(おどろ)いて誰がやったのかと見れば浅野であり、吉良が浅野の方へ振(ふ)り向くと顔に太刀(たち)を浴びせられた」。
「あわてて逃(に)げようとする吉良に対して浅野がまた二太刀浴びせ、吉良が倒(たお)れたところでようやく梶川が浅野を押しとどめた」。
つまり、浅野は卑怯(ひきょう)にも吉良を後ろからいきなり斬り付けたというのです。そこには「吉良による浅野への罵倒」などあるはずもなく、しかも老人の吉良に対して壮年(そうねん)の浅野が何太刀も浴びせながら、殺害することすらできませんでした。
実は、この「殺害できなかった」ことが浅野自身の「資質(ししつ)」による影響(えいきょう)ではないか、という見方もあるのです。





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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、後ろからいきなり斬りつけるという
行為そのものが本当であれば、かなり卑怯な手口であることは間違いありませんよね。
卑怯な手口でしか相手に立ち向かえないという
事事態、それだけの資質しか備えていなかったという事でもありますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
ここで問題になるのは、浅野がなぜ卑怯とも言える手法を取ったかということになります。
次回(15日)でその流れを明らかにしたいと思います。
オバrev う~ん、なるほど~!
歴史的事実と、歴史的認識には大きなズレがあるという典型ですかね。
何の疑いもなく赤穂浪士を信じていましたが、眼から鱗とはこのことです。
と言うか、歴史ってのはこういうものかとも思いました^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
ただ、ネタバレしない程度に先に申しあげますが、今紹介している見方にも「何か」が足りないのです。
歴史は本当に深いですね。
浅野内匠頭…大失態!!!
鹿児島のタク “もしもしもし”,「耐え難い屈辱」を吉良上野介から受けていたとしても,浅野内匠頭は,やってはならないことをやってしまったと考えます。
江戸城内で,このような重要な日に,刃傷に及べば,どういうことになるか…。そんなこと,大名なら当然知っていなければなりません。
話は変わりますが,江戸城内では,大名の家格に応じて,詰め所が決まっています。そこで,大名同士でいろいろなコミュニケーションをとったり,情報交換をしたりすることがあったことでしょう。そのような場面で,他の大名に対してある種の“遺恨”を持つのは,日常茶飯事であったと想像できます。
でも,大名たるもの,「耐えがたき屈辱」を受けても,じっと我慢をするのが当然なのであります。
江戸城内で,刃傷事件など起こせば,最悪の場合「改易」である。その瞬間,自分の部下は全員「失業者」になってしまうのだ…。
だから,想像するに,大名の嫡子は幼いころから,このような件について「しっかりとした躾・立ち振る舞い」の指導・訓練を受けていたはずで,このように浅野内匠頭のような行動に出てはならないのだと思います。
大名と言うと,どうせ「バカ殿」が多かったろう…というイメージをもたされているが,実は,非常につらい立場であり,「胆力」がなければ,やっていけなかったという認識を,我々はもっともってもいいのではないかと考える今日この頃です。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
問題は「そこまで分かっていながら浅野がなぜ刃傷に及んだのか」ということです。
最近の通説では本文にあるように「浅野自身の資質に問題があった」となっておりますが、その真相は…。
鳳麒 「遺恨覚えたるか!」の台詞は創作だという話もありますが、真相は果たして?
不意打ちを仕掛けておきながら、結局トドメを刺し損ねた。しかも老人を相手に。
だから浅野は馬鹿殿、資質に欠ける暗君。
こういった評価は疑問に思いますね。
もはや世は戦国時代ではなく、平和になってから百年も経っていたのですから、生まれてこの方、人を殺した経験がなく、為に武器の扱いに不慣れだったとしても、別に何ら不思議ではないでしょう。
この頃には戦国の世を生きた世代は皆死んでいて、誰も実戦経験などなかったのですから。
仮に武芸の稽古を積んでいたとしても、実際の斬り合いとなるとまた話は別です。
だから行為自体は決して褒められたものではない、という事は別として、殺すのに失敗したというだけの事で暗君扱いは、さすがに違うと思います。
こういった評価を下すのは、北条氏政の「汁掛け飯」「麦の昼飯」の逸話を鵜呑みにして、だから器量がなかったのだと貶すのと同じだと思います。
そして徳川秀忠を関ヶ原の遅参の件ですっかり味噌を付けてしまった事だけを論って、「人柄が好いだけが取り柄の凡君」の烙印を押すのと同じだと思います。
もっとも氏政の方のは後世の創作で、仮に史実だったとしても、言い掛かりでしかありませんが。
仰るとおり、後ろからいきなり斬りつけるという
行為そのものが本当であれば、かなり卑怯な手口であることは間違いありませんよね。
卑怯な手口でしか相手に立ち向かえないという
事事態、それだけの資質しか備えていなかったという事でもありますね。
応援凸
ここで問題になるのは、浅野がなぜ卑怯とも言える手法を取ったかということになります。
次回(15日)でその流れを明らかにしたいと思います。
歴史的事実と、歴史的認識には大きなズレがあるという典型ですかね。
何の疑いもなく赤穂浪士を信じていましたが、眼から鱗とはこのことです。
と言うか、歴史ってのはこういうものかとも思いました^^;
ただ、ネタバレしない程度に先に申しあげますが、今紹介している見方にも「何か」が足りないのです。
歴史は本当に深いですね。
江戸城内で,このような重要な日に,刃傷に及べば,どういうことになるか…。そんなこと,大名なら当然知っていなければなりません。
話は変わりますが,江戸城内では,大名の家格に応じて,詰め所が決まっています。そこで,大名同士でいろいろなコミュニケーションをとったり,情報交換をしたりすることがあったことでしょう。そのような場面で,他の大名に対してある種の“遺恨”を持つのは,日常茶飯事であったと想像できます。
でも,大名たるもの,「耐えがたき屈辱」を受けても,じっと我慢をするのが当然なのであります。
江戸城内で,刃傷事件など起こせば,最悪の場合「改易」である。その瞬間,自分の部下は全員「失業者」になってしまうのだ…。
だから,想像するに,大名の嫡子は幼いころから,このような件について「しっかりとした躾・立ち振る舞い」の指導・訓練を受けていたはずで,このように浅野内匠頭のような行動に出てはならないのだと思います。
大名と言うと,どうせ「バカ殿」が多かったろう…というイメージをもたされているが,実は,非常につらい立場であり,「胆力」がなければ,やっていけなかったという認識を,我々はもっともってもいいのではないかと考える今日この頃です。
問題は「そこまで分かっていながら浅野がなぜ刃傷に及んだのか」ということです。
最近の通説では本文にあるように「浅野自身の資質に問題があった」となっておりますが、その真相は…。
不意打ちを仕掛けておきながら、結局トドメを刺し損ねた。しかも老人を相手に。
だから浅野は馬鹿殿、資質に欠ける暗君。
こういった評価は疑問に思いますね。
もはや世は戦国時代ではなく、平和になってから百年も経っていたのですから、生まれてこの方、人を殺した経験がなく、為に武器の扱いに不慣れだったとしても、別に何ら不思議ではないでしょう。
この頃には戦国の世を生きた世代は皆死んでいて、誰も実戦経験などなかったのですから。
仮に武芸の稽古を積んでいたとしても、実際の斬り合いとなるとまた話は別です。
だから行為自体は決して褒められたものではない、という事は別として、殺すのに失敗したというだけの事で暗君扱いは、さすがに違うと思います。
こういった評価を下すのは、北条氏政の「汁掛け飯」「麦の昼飯」の逸話を鵜呑みにして、だから器量がなかったのだと貶すのと同じだと思います。
そして徳川秀忠を関ヶ原の遅参の件ですっかり味噌を付けてしまった事だけを論って、「人柄が好いだけが取り柄の凡君」の烙印を押すのと同じだと思います。
もっとも氏政の方のは後世の創作で、仮に史実だったとしても、言い掛かりでしかありませんが。