侍従であるとともにご学友だった藤波に対して心を許された明治天皇は講義を熱心にお聞きになり、お分かりにならなかったところはご下問(かもん)されるなど、シュタインの憲法学を懸命(けんめい)に勉強なさいました。
そして明治21年4月、このように憲法について徹底的(てっていてき)に勉学を重(かさ)ねられた明治天皇のもとに憲法の草案が捧呈(ほうてい、敬意を示して手でささげ持ち差し上げること)され、枢密院での審議にかけられることになりましたが、その開院式の行事をめぐって大きな事件が起きてしまいました。
開院式を前日に控(ひか)えた5月7日、枢密院の議長であった伊藤博文が開院式の勅語案(ちょくごあん、勅語とは天皇によるお言葉のこと)を宮内大臣(くないだいじん)を通じて差し上げたところ、明治天皇は激怒(げきど)なさり、次のように仰(おっしゃ)られました。
「勅語の下賜(かし、天皇が臣下に物を与えること)は極めて重大(じゅうだい)であるのに、博文(=伊藤)はなぜ自分でこれを奏上(そうじょう、天皇に申し上げること)しないのか。前日になって突然奏上して朕(ちん)にそのまま朗読させるとは何事か。博文がかくも不誠実(ふせいじつ)な態度をとるのであれば、朕は明日の開院式には臨(のぞ)みたくない。勅語の案文は博文に突き返しなさい」。





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ぴーち おはようございます!
全く無知の分野を9ヶ月もの間懸命に学び、それを天皇へ伝えた藤波の功績に心打たれますね。
こうした影の努力があってこその憲法だったのだと思うと、改めて頭が下がる思いがしました。
それにしても、伊藤博文には何か策略があったのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、藤波氏の影の努力は大いに称賛されるべきかと思われます。
伊藤の場合は「憲法を作ってきたのは自分だ」という考えが、直後を手渡すだけでしかも他人に任せるという傲慢な態度につながったのではないでしょうか。
全く無知の分野を9ヶ月もの間懸命に学び、それを天皇へ伝えた藤波の功績に心打たれますね。
こうした影の努力があってこその憲法だったのだと思うと、改めて頭が下がる思いがしました。
それにしても、伊藤博文には何か策略があったのでしょうかね?
応援凸
伊藤の場合は「憲法を作ってきたのは自分だ」という考えが、直後を手渡すだけでしかも他人に任せるという傲慢な態度につながったのではないでしょうか。