いくら戦国の世とはいえ主君に対する謀反というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響(えいきょう)を及(およ)ぼすのは避(さ)けられません。だからこそ信長は義昭の誘いを断り、その代わりに最大の貿易港の一つであった堺を抑えるために和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫(あっぱく)するようになっていきました。やがて信長の本意を悟(さと)った義昭は激怒し、信長を倒すべく様々な作戦を練(ね)り始めました。
後の世に「信長包囲網(のぶながほういもう)」と名付けられた義昭の行動によって一時は信長を追いつめたものの、頼りにしていた武田信玄(たけだしんげん)の急死もあって結局は失敗に終わりました。ところが、信玄の死を知らなかった義昭は、もはや起こり得ない信玄の上洛を信じて居住(きょじゅう)していた将軍御所(しょうぐんごしょ)で挙兵しましたが、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。
諦(あきら)め切れない義昭はこの後もう一度挙兵しますが敗れ、1573年旧暦7月に義昭が信長によって京都を追われたことで、235年続いた足利氏による室町幕府は事実上滅亡(めつぼう)しました。時代は信長による新しい秩序(ちつじょ)に向けて着実に進んでおり、足利将軍はもはや必要とされなくなっていたのです。





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晴雨堂ミカエル 後に信長は右大将や右大臣に任ぜられますが、それ以降は左大臣任官を断り、太政大臣や征夷大将軍の内定も断ったそうで、おまけに京で騎馬軍団の軍事パレード。
正親町帝や公家たちは肝を冷やした事でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 今回は室町幕府の話で信長は直接関係ありませんので簡潔に記しますが、仰る一面は確かにありますね。
皇室をないがしろにする様に見えたことが後に様々な憶測を呼ぶことになりました。
ぴーち おはようございます!
なるほど!
信玄の死を義昭は知らなかった事で、情勢は一気に傾いてしまった訳ですか。。。
今とは違い情報の伝達も遅く、またその信ぴょう性も薄い時代の話でしょうからね。
情報をいち早く、正確に捉えて判断することは今も昔も情勢に打ち勝つ最たる手段なのでしょうね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、情報収集の能力は今も昔も必須ですね。
それを含め、かなりの能力を備えていた信長による新しい秩序を中心に世の中が動き始めたのも時代の流れとして当然だったのかもしれません。
正親町帝や公家たちは肝を冷やした事でしょう。
皇室をないがしろにする様に見えたことが後に様々な憶測を呼ぶことになりました。
なるほど!
信玄の死を義昭は知らなかった事で、情勢は一気に傾いてしまった訳ですか。。。
今とは違い情報の伝達も遅く、またその信ぴょう性も薄い時代の話でしょうからね。
情報をいち早く、正確に捉えて判断することは今も昔も情勢に打ち勝つ最たる手段なのでしょうね(^_^;)
応援凸
それを含め、かなりの能力を備えていた信長による新しい秩序を中心に世の中が動き始めたのも時代の流れとして当然だったのかもしれません。