そんな経緯(けいい)で将軍になった義晴ですが、約25年もの間地位を維持し続けたものの、最後には細川氏の内紛をきっかけに将軍職を子の足利義輝(あしかがよしてる)に譲りました。
その後、細川氏が内紛を繰り返す間に実力をつけた家臣の三好長慶(みよしながよし)によって13代将軍の義輝は傀儡(かいらい、自分の意志や主義を表さず他人の言いなりに動いて利用されている者のこと)となりましたが、義輝は諸大名の抗争(こうそう)の調停を行うなど徐々(じょじょ)に政治的手腕を発揮(はっき)し、幕府権力の復活に努めました。
しかし、こうした義輝の動きを疎(うと)ましく思った三好氏の家臣の松永久秀(まつながひさひで)らが1565年に謀反(むほん)を起こすと、義輝は奮戦(ふんせん)むなしく無念の最期(さいご)を遂(と)げました。これを当時の年号から永禄の変(えいろくのへん)といいます。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
いよいよ、松永久秀が登場ですね。
◆ 将軍殺しの悪役であり、
(足利義輝は、かなり、優秀で、上杉謙信も
後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎になりました。)
◆ 戦国時代きっての謀略家であり、
◆ 茶人として、文化人であり
◆ 領民からは、慕われた名君であり、
以前、ある本に
『織田信長の天才性』を見抜いた人間が
2人だけいたそうです。
その2人とは
『徳川家康』と『松永久秀』です。
秀才は、天才になれないですが、天才を見抜くことは、できるから不思議です。
松永久秀だけで、本が一冊書けそうですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
「三好家乗っ取り」「東大寺焼却」「将軍暗殺」の三悪事は久秀を象徴する出来事と言われています。
これ以上は関連外になるので止めますが、戦国時代屈指の梟雄であることは間違いありません。
名将軍だった足利義輝
青田です。 足利義輝は、本当に優秀ですね、生まれる時期さえ間違わなければ
名将軍になれたと思います。
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、
諸国の戦国大名との修好に尽力しています。
◆ 伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、
◆ 武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、
◆ 島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(同3年(1560年))、
◆ 毛利元就と大友宗麟(同6年(1563年))、
◆ 上杉輝虎と北条氏政と武田晴信(同7年(1564年))など、
さらに懐柔策として
◆ 大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、
◆ 三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋使用を許し
◆ さらに自らの名の「輝」の字を偏諱として、
毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名を与えています。
ここまでのことをしていて、足利義輝が暗殺されるということは
権威だけは、もの凄い力は、あるのに
現実の力は、皆無だったということですね。
個人的に足利義輝は、よく、頑張ったと思います。
本当に残念です。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、現実の実力と将軍の形ばかりの権威とが余りにもかけ離れていたことが義輝の悲劇につながったと思います。
ぴーち おはようございます!
義輝は幼い頃からずっと内紛の様子を目の当たりにしてきて、その中で色々と政治的な手腕の元になるようなヒントを学んで行ったのでしょうかね・・。
他人の言いなりになり行動していながらも、自分の考えというをしっかりと心に秘め、機が熟すのを待ち望んでいたのかも知れませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義輝は学習能力を持つなどかなり優秀だった一面があります。
ただ、残念なことに機が熟す前に滅ぼされてしまいました…。
剣豪将軍。
晴雨堂ミカエル 義輝は剣豪としても名高い人ですね。
最期はコレクションの銘刀を並べて奮戦、折れたら次の太刀といった具合。
松永勢はなかなかしとめられず、数人がかりで襖で押さえつけて殺ったらしいですな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 その話は私も聞いたことがあります。
「衆寡敵せず」とは彼のためにある言葉ですね。
こんにちは
青田です。
いよいよ、松永久秀が登場ですね。
◆ 将軍殺しの悪役であり、
(足利義輝は、かなり、優秀で、上杉謙信も
後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎になりました。)
◆ 戦国時代きっての謀略家であり、
◆ 茶人として、文化人であり
◆ 領民からは、慕われた名君であり、
以前、ある本に
『織田信長の天才性』を見抜いた人間が
2人だけいたそうです。
その2人とは
『徳川家康』と『松永久秀』です。
秀才は、天才になれないですが、天才を見抜くことは、できるから不思議です。
松永久秀だけで、本が一冊書けそうですね。
「三好家乗っ取り」「東大寺焼却」「将軍暗殺」の三悪事は久秀を象徴する出来事と言われています。
これ以上は関連外になるので止めますが、戦国時代屈指の梟雄であることは間違いありません。
名将軍になれたと思います。
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、
諸国の戦国大名との修好に尽力しています。
◆ 伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、
◆ 武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、
◆ 島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(同3年(1560年))、
◆ 毛利元就と大友宗麟(同6年(1563年))、
◆ 上杉輝虎と北条氏政と武田晴信(同7年(1564年))など、
さらに懐柔策として
◆ 大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、
◆ 三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋使用を許し
◆ さらに自らの名の「輝」の字を偏諱として、
毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名を与えています。
ここまでのことをしていて、足利義輝が暗殺されるということは
権威だけは、もの凄い力は、あるのに
現実の力は、皆無だったということですね。
個人的に足利義輝は、よく、頑張ったと思います。
本当に残念です。
義輝は幼い頃からずっと内紛の様子を目の当たりにしてきて、その中で色々と政治的な手腕の元になるようなヒントを学んで行ったのでしょうかね・・。
他人の言いなりになり行動していながらも、自分の考えというをしっかりと心に秘め、機が熟すのを待ち望んでいたのかも知れませんね^^
応援凸
ただ、残念なことに機が熟す前に滅ぼされてしまいました…。
最期はコレクションの銘刀を並べて奮戦、折れたら次の太刀といった具合。
松永勢はなかなかしとめられず、数人がかりで襖で押さえつけて殺ったらしいですな。
「衆寡敵せず」とは彼のためにある言葉ですね。