1507年、政元は不意を突かれて暗殺されました。これを当時の年号から永正の錯乱(えいしょうのさくらん)といいます。政元が殺されたことで細川氏の間で激しい対立が繰り返され、やがて細川氏そのものが没落(ぼつらく)していくことになりますが、没落した人物はもう一人いました。それは将軍の義澄です。
義澄は政元と対立しつつも主従関係(しゅじゅうかんけい)を維持(いじ)し続けていたのですが、政元暗殺後に守護大名の大内義興(おおうちよしおき)が新たな将軍後継者を擁立(ようりつ)して上洛(じょうらく)すると近江(おうみ、現在の滋賀県)に逃れ、翌1508年には将軍職を辞めさせられました。
大内の推挙(すいきょ)で将軍に就任したのは足利義尹(あしかがよしただ)でしたが、実は彼こそが1493年に将軍を廃位(はいい)された義材その人だったのです。歴史上稀(まれ)に見る「将軍返り咲(ざ)き」を果たした義尹はその後1513年に「義稙(よしたね)」と改名しましたが、1518年に大内が領地に帰国して後ろ盾(だて)を失うと、政元の養子であった細川高国(ほそかわたかくに)によって1521年に将軍の地位を再び追われ、その後寂(さび)しく生涯を閉じました。





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晴雨堂ミカエル 大河ドラマでは、細川勝元の時代は「花の乱」、政元の時代は「毛利元就」の前半にあたります。
足利将軍代々の写実的な彫刻が残されていますが、この頃の将軍は顔つきが貧相ですね。
政元ほどの超大物が独身というのは解せませんね。嫌でも子作りさせられるのに。
当時の武家や公家は男色が普通にありましたから。松永弾正や信長は有名ですし、今年の大河で有名になった悪左府や時代は下って浅野内匠頭などなど。
大内家。
晴雨堂ミカエル 大内義興は三位の左京大夫、幕府の役職は管領代。
天下に号令できるポジションにいながら10年程度で領国が不安になって京を手放しています。
信長のシステムが確立していない時代では京の家賃は高かったんでしょうな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 政元は女人禁制の修験道に没頭していたために生涯独身でした。男色の噂もありますね。
大内の頃は信長のような領国経営のシステムがなかったですからね。過度期には様々な問題が起きるものです。
ぴーち おはようございます!
将軍職に返り咲くというのは、非常に稀なケースだったのですね。それでもやはり力量の無い人物は、何度チャンスを貰っても結局力不足で終わってしまうものなのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、せっかく将軍に返り咲いたとしても自己の力量がなければ結局は一緒なんですよね。
権力へのこだわりの姿も最後には滑稽に見えてしまうところが哀れでもあります。
足利将軍代々の写実的な彫刻が残されていますが、この頃の将軍は顔つきが貧相ですね。
政元ほどの超大物が独身というのは解せませんね。嫌でも子作りさせられるのに。
当時の武家や公家は男色が普通にありましたから。松永弾正や信長は有名ですし、今年の大河で有名になった悪左府や時代は下って浅野内匠頭などなど。
天下に号令できるポジションにいながら10年程度で領国が不安になって京を手放しています。
信長のシステムが確立していない時代では京の家賃は高かったんでしょうな。
大内の頃は信長のような領国経営のシステムがなかったですからね。過度期には様々な問題が起きるものです。
将軍職に返り咲くというのは、非常に稀なケースだったのですね。それでもやはり力量の無い人物は、何度チャンスを貰っても結局力不足で終わってしまうものなのですね(^^ゞ
応援凸
権力へのこだわりの姿も最後には滑稽に見えてしまうところが哀れでもあります。