それに加えて、義材は自分を将軍にしてくれた「恩人」でもある日野富子と次第に距離(きょり)を置くようになっていたため、義材に対する富子の不満も高まっていました。
そんな折の1493年、義材は守護大名の畠山氏を討伐するために河内(かわち、現在の大阪府北東部)へ遠征すると、その隙をついて京都で政元と富子がクーデターを起こし、義政の異母兄(いぼけい)で初代堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも)の子である足利義澄(あしかがよしずみ)を新たに11代将軍に立てました。
無理やり将軍職を追われた義材は失意(しつい)のうちに越中(えっちゅう、現在の富山県)へ逃(のが)れ、また1496年に富子が亡くなったため、以後の幕府の政治の実権は政元が握ることになりました。これを当時の年号から明応の政変(めいおうのせいへん)といいます。
明応の政変は、室町幕府の将軍が時の権力者たる臣下(しんか)の思惑(おもわく)によって簡単に交代させられてしまうという事実を世に示したことを意味していました。室町将軍の地位が単なる「権威」に過ぎず、臣下が将軍を必要としなければそれこそ「使い捨て」のように処分(しょぶん)されてしまうという冷徹(れいてつ)な現実がはっきりしたことから、この時期こそが戦国時代の始まりにふさわしいという説もあります。





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ぴーち おはようございます!
義材は何故に富子との距離を取ろうとしたのでしょうか・・?
日野富子の余りにも強い野心に恐れをなしたとか?(苦笑)
それに使い捨てですか・・
現代も直ぐに国民からポイ捨てされる
首相ばかり・・・。
外国から見ると日本のこういう体質は異常であると評価されるようですが、勿論、日本人からみても余りにも目まぐるしくトップが変わる現状というのは、好ましいものでないと思います。
しかし、こうして伺っていると昔の日本も今となんら代わり映えのしない事をしていたのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義材が富子を嫌ったのは仰るとおりだと思います。
政治のみならず、将軍の一挙手一投足にまでいちいち口出しされてはたまったものではなかったでしょう。
確かに我が国の首相は「使い捨て」のイメージが大きいですね。
強いリーダーシップは嫌われる傾向にあるのかもしれませんが…。
義材は何故に富子との距離を取ろうとしたのでしょうか・・?
日野富子の余りにも強い野心に恐れをなしたとか?(苦笑)
それに使い捨てですか・・
現代も直ぐに国民からポイ捨てされる
首相ばかり・・・。
外国から見ると日本のこういう体質は異常であると評価されるようですが、勿論、日本人からみても余りにも目まぐるしくトップが変わる現状というのは、好ましいものでないと思います。
しかし、こうして伺っていると昔の日本も今となんら代わり映えのしない事をしていたのですね(^^ゞ
応援凸
政治のみならず、将軍の一挙手一投足にまでいちいち口出しされてはたまったものではなかったでしょう。
確かに我が国の首相は「使い捨て」のイメージが大きいですね。
強いリーダーシップは嫌われる傾向にあるのかもしれませんが…。