これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんえん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛(も)り上がってきましたが、応仁の乱のきっかけのひとつであった守護大名の家督争いに決着がつかなかったこともあり、戦いはいつしか京都から全国に広がって延々(えんえん)と果てしなく続けられました。
そんな中で1471年に西軍の朝倉孝景(あさくらたかかげ)が東軍に寝返(ねがえ)ると、追いつめられた西軍は後南朝(ごなんちょう)の小倉宮(おぐらのみや)の子孫と称(しょう)する人物を「西陣の南帝(なんてい)」として立てましたが、義教の時代に行われた断絶工作が進んでいたうえに後南朝が三種の神器(さんしゅのじんぎ)を持っていなかったことから、いつしか歴史上から姿を消してしまいました。
その後、1473年に山名宗全と細川勝元が相次(あいつ)いで亡(な)くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲った後もなお戦いの決着がつかず、開始から約10年後の1477年になってようやく終戦を迎えましたが、長きにわたった戦いで京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
なお、隠居した義政は後に銀閣寺(ぎんかくじ)または慈照寺(じしょうじ)と呼ばれた東山殿(ひがしやまどの)の建設を1482年に始めましたが、その完成を待つことなく1490年に亡くなっています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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オバrev あれまぁ(>_<)、義視が細川から山名に寝返っただけでなく、日野富子・義尚も山名から細川に転じているんですね。
昨日の敵は今日の友って言葉はありますけど、下に仕える者は、誰のために何のために戦っていたか分からなくなってたでしょうね。
相当混乱したんじゃないでしょうか。
応仁の乱でこんなことが起こっていたとは、初めて知りました(;^ω^)
それでも目的もはっきりせず、延々と10年の長きにわたって戦いが続いたのは何故なんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり現場は大混乱だったと思いますし、本当に何のために血を流して戦っているのか分からなくなりますね。
10年間も戦いが続いたのは、応仁の乱にかこつけての別の守護大名の家督争いが決着しなかったからです。
全く別の目的でダラダラと戦いが続いたんですから、もはや何をかいわんやですね。
ぴーち おはようございます!
私もしっかり混乱してしまったので、2,3日前の記事を何度も確認させていただきました(^_^;)
結局、元々は義政の決断力の無さから
日野富子と義視との間に確執が生まれ、他の大名達の思惑と重なり、争いの炎が大きく拡大してしまったのですね。
時の権力者にとって家督を決める事は確かに大切な事かもしれませんが、こうなると自分たちのことで精一杯で国民を無視した醜い争いにも見受けられますし、やはり一番迷惑を被るのは国民だという事は今も昔も変わりはありませんね・・・(/_;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、自分たちの権力争いによって国民に大きな迷惑をかけていますよね。
今も昔もそんなことばかり繰り返している政権は必ず痛い目を見ます。近くでは自民党もそうでしたし、今度は…。
昨日の敵は今日の友って言葉はありますけど、下に仕える者は、誰のために何のために戦っていたか分からなくなってたでしょうね。
相当混乱したんじゃないでしょうか。
応仁の乱でこんなことが起こっていたとは、初めて知りました(;^ω^)
それでも目的もはっきりせず、延々と10年の長きにわたって戦いが続いたのは何故なんでしょうか?
10年間も戦いが続いたのは、応仁の乱にかこつけての別の守護大名の家督争いが決着しなかったからです。
全く別の目的でダラダラと戦いが続いたんですから、もはや何をかいわんやですね。
私もしっかり混乱してしまったので、2,3日前の記事を何度も確認させていただきました(^_^;)
結局、元々は義政の決断力の無さから
日野富子と義視との間に確執が生まれ、他の大名達の思惑と重なり、争いの炎が大きく拡大してしまったのですね。
時の権力者にとって家督を決める事は確かに大切な事かもしれませんが、こうなると自分たちのことで精一杯で国民を無視した醜い争いにも見受けられますし、やはり一番迷惑を被るのは国民だという事は今も昔も変わりはありませんね・・・(/_;)
応援凸
今も昔もそんなことばかり繰り返している政権は必ず痛い目を見ます。近くでは自民党もそうでしたし、今度は…。