義視からすれば一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚の母の富子からすれば自分がお腹(なか)を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚(おろ)かな話はありません。しかし、初代将軍である足利尊氏(あしかがたかうじ)のように優柔不断(ゆうじゅうふだん、ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと)な義政には、どちらを後継にするかを決めることが出来ませんでした。
義政がいつまで経(た)っても後継を決めないことに業(ごう)を煮(に)やした義視と富子は、義視が管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に、富子が侍所(さむらいどころ)の長官である四職(ししき)筆頭の山名宗全(やまなそうぜん、出家前の名は山名持豊=やまなもちとよ)にそれぞれ接近すると、細川・山名の両氏がこれを好機として幕府の政治の実権を握(にぎ)ろうとお互(たが)いに争い始めました。
この他にも守護大名の畠山氏(はたけやまし)や斯波氏(しばし)の家督(かとく)争いがからんだことで、1467年についに京都で大きな戦いが起きてしまいました。戦国時代(せんごくじだい)の幕開けともいわれる応仁の乱(おうにんのらん)の始まりです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
今日のお話を伺って、益々義政という人物の
不甲斐なさが残念に思えてなりません・・。
ちょっと前に流行った言い方をすると「だめんず」の元祖というか・・・(^^ゞ
義政という方は幼い頃から、蝶よ花よで甘やかされて育てられてしまった経験があるのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
義政がこうなったしまったのは周囲の影響もあるかもしれませんが、やはり尊氏のマイナスの血が流れてしまっているのも原因のひとつかもしれません。
そして、その「ダメっぷり」は義政以外の身内でも…。
今日のお話を伺って、益々義政という人物の
不甲斐なさが残念に思えてなりません・・。
ちょっと前に流行った言い方をすると「だめんず」の元祖というか・・・(^^ゞ
義政という方は幼い頃から、蝶よ花よで甘やかされて育てられてしまった経験があるのでしょうか・・?
応援凸
義政がこうなったしまったのは周囲の影響もあるかもしれませんが、やはり尊氏のマイナスの血が流れてしまっているのも原因のひとつかもしれません。
そして、その「ダメっぷり」は義政以外の身内でも…。