南北朝の合一の条件のうち、まず皇位の継承の際の「譲国の儀式」は一切行われませんでした。後亀山・後小松の両天皇のご対面もなく、三種の神器が単に宮中(きゅうちゅう、ここでは朝廷の中という意味)に戻ったという形式となったのです。
これでは北朝が「失(な)くした神器を取り戻した」ということになり、南朝の正当性が一切認められないことを意味します。また、退位された後亀山上皇も当初は正式に上皇と認められず、義満の裁定(さいてい)によって「不登極帝(ふとうきょくのてい)」、すなわち「即位していない天皇」に上皇の地位を与えるということになりましたが、即位が認められなければ後亀山上皇が「治天の君(ちてんのきみ)」として院政(いんせい)を行うことができません。
両統迭立の約束も後小松天皇の次の天皇となる皇太子が長い間決められず、義満の死後に後小松天皇の子の称光天皇(しょうこうてんのう)が即位されたことで南朝への皇位継承の道が遠くなり、さらには国衙領もこの頃までには実質的にほとんど存在していませんでした。
要するに、義満は南朝に空手形(からてがた)をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的(さぎてき)なものでしたが、同時に彼の行動によって二つあった朝廷が一つにまとまったことで、それまでの混乱状態から回復して世の中が平和に向かうという皮肉な結果になりました。平和というのは綺麗事(きれいごと)だけでは達成できないという見本のような事実ですね。
なお、義満に「だまされた」形となった南朝の勢力は、後亀山上皇が一時期は京都から吉野へ移られるなど、幕府や朝廷(=北朝)に対して様々な抵抗を続けることになりますが、詳(くわ)しくは後で紹介(しょうかい)します。





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晴雨堂ミカエル 義満は二十歳代前半でたしか内大臣、三十歳前には左大臣へと、戦に明け暮れた尊氏よりもトントン拍子に叙勲しています。
その背景には何があると思いますか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 これから明らかになりますが、義満の母系が大きな鍵を握ることになります。
もちろん、以前に示した奉公衆という武力あっての話になりますが。
ぴーち おはようございます!
まさに雨降って地固まるですねエ・・
地球における数々の生命も、海に波が起こらなければ
誕生出来なかった様に、
波風立てる事は、最初は悪い方向へ
向かうような様相を示しながら、意外と良い結果をもたらすものですよね(^^)v
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、南朝にとってはとんでもない話でしたがそれが結局我が国の混乱が収まる効果をもたらしましたからね。
世の中どう流れるか分かったものではありません。
朝廷工作
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
やはり、政治家としては、足利義満は、
足利尊氏のよりも、一枚も二枚も上手ですね。
これほど、混迷化して、複雑化した南北朝を
を統一するとは
特に朝廷工作の駆け引きは、イイ意味でも
悪い意味でも、見事です。
朝廷工作がここまで、巧妙な武将は、歴史的にも少ない気がします。
(平清盛、藤原氏レベル)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、見事な工作でした。
義満の南北朝への工作は結果的に大成功でしたが、人間の野望というのはとどまるところを知らないというのが正直なところで…というのが今後の見どころになりますね。
その背景には何があると思いますか?
もちろん、以前に示した奉公衆という武力あっての話になりますが。
まさに雨降って地固まるですねエ・・
地球における数々の生命も、海に波が起こらなければ
誕生出来なかった様に、
波風立てる事は、最初は悪い方向へ
向かうような様相を示しながら、意外と良い結果をもたらすものですよね(^^)v
応援凸
世の中どう流れるか分かったものではありません。
こんにちは
青田です。
やはり、政治家としては、足利義満は、
足利尊氏のよりも、一枚も二枚も上手ですね。
これほど、混迷化して、複雑化した南北朝を
を統一するとは
特に朝廷工作の駆け引きは、イイ意味でも
悪い意味でも、見事です。
朝廷工作がここまで、巧妙な武将は、歴史的にも少ない気がします。
(平清盛、藤原氏レベル)
義満の南北朝への工作は結果的に大成功でしたが、人間の野望というのはとどまるところを知らないというのが正直なところで…というのが今後の見どころになりますね。