それもこれも、朝廷(ちょうてい)が二つに分かれて争う状態が続いていたのが大きな理由でした。先の鎌倉幕府(かまくらばくふ)や後の戦国時代(せんごくじだい)、あるいは江戸幕府(えどばくふ)など、武家政権の多くは長い伝統に基(もと)づく権威(けんい)を有する朝廷の扱(あつか)いに悩まされてきましたが、それが二つもあってはたまったものではありません。
なぜなら、お互(たが)いに対立している二つの勢力がそれぞれ北朝や南朝を別々に担(かつ)ぐことによってそれぞれが朝廷の後見(こうけん)を得ることになり、争い事がいつまで経(た)っても収拾(しゅうしゅう)がつかなくなるからです。
このため、義満も南北朝が一つになるよう工作を続け、南朝側も長慶天皇から皇位(こうい)を継承(けいしょう)された後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が和睦に応じられたことで、1392年についに南北朝の合一(ごういつ)が実現しました。
南北朝の合一は、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器を譲(ゆず)られて退位されるという形式で行われましたが、そこには義満による巧妙(こうみょう)な罠(わな)が仕掛(しか)けられていました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
例え、それが巧妙な罠であっても
南北朝という2つの勢力が存在する事が、
頭痛の種であった訳ですから、
義満の功績は多大であった様に思えます。
ニュアンスは違うますが、毒を以って毒を制すの
荒療法が必要な時もあるものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりです。
日本史上においては義満の「功績」は輝かしいものがあったという事実は動きません。
ただ、その一方で「巧妙な罠」の真実を知ることは当時の様々な歴史の流れを理解することにもつながり、非常に重要であると思います。
例え、それが巧妙な罠であっても
南北朝という2つの勢力が存在する事が、
頭痛の種であった訳ですから、
義満の功績は多大であった様に思えます。
ニュアンスは違うますが、毒を以って毒を制すの
荒療法が必要な時もあるものですね。
応援凸
日本史上においては義満の「功績」は輝かしいものがあったという事実は動きません。
ただ、その一方で「巧妙な罠」の真実を知ることは当時の様々な歴史の流れを理解することにもつながり、非常に重要であると思います。