「優しい人」「気前の良い人」といえば人間が本来持つべき性格であるとされ、私たち一般人の間では好かれる傾向(けいこう)にありますが、政治の世界においてはマイナスでしかありません。なぜなら、尊氏の「優しさ」は政敵(せいてき)を抹殺することをためらわすことで「優柔不断」となり、結果として幕府の将来に暗雲をもたらしてしまったからです。
尊氏が亡くなった1358年において、幕府の勢力が及んだ地域は鎌倉と京都が目立つのみであり、中国地方は足利直冬が、九州は後醍醐天皇の子である懐良親王(かねよししんのう、または「かねながしんのう」)が実質的な支配を固めていました。
しかも、三種の神器を所有している南朝こそが正当であるとみなされたことで、尊氏の征夷大将軍を保証する北朝の権威が低くなり、それと連動して足利将軍の地位も低く見られる傾向にありました。
さらには絶対的なカリスマ性を持っていた源頼朝と比較して、源氏の名門出身ではあったものの将軍として君臨(くんりん)するにはただでさえ器量不足だった尊氏が、他の勢力に「気前良く」領土を与えたことで、やがては守護大名が幕府のいうことを聞かなくなるという結果をもたらし、足利家そのものの地位をさらに低下させてしまいました。
こうした尊氏のいわゆる「負の遺産」をどう処理(しょり)すればよいのかという大きな課題が、室町幕府代々の将軍を悩(なや)ませるとともに、我が国の歴史にも様々な影響を及ぼしていくのです。(第30回歴史講座に続く)
(※第29回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[4月17日]からは通常の更新[=明治時代]に戻ります)





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ぴーち おはようございます!
なるほど、同じ地位の低さから天下人にまで
伸し上がった秀吉との違いは、そのお人好しの性格が厄しての事だったのですね。
自分の野心を叶える為の代償は、大多数を敵に回しても良いという覚悟でなければならないはずが、野心は叶えたい。けれど周りの人からは憎まれたくない・・という欲張った考え方は両立しなかったという事になるでしょうかね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 秀吉はお人よしでありながら出世欲が強く、信長の死後は野望をむき出しにして天下を取りました。
このあたりが尊氏との大きな違いですね。
将軍として君臨し、天下を取る気概を持ちたいのであれば、周囲の目を気にして「良い子でいる」などということはできない、というわけですね。
しきしま 足利尊氏の「優しさ」は、その場だけ見れば大人の対応の様にも映りますが、戦い抜いて世を治める立場としては、トータル的に戦を長引かせる結果となってしまったのですね(戦が長引くという事は、傷つき斃れる人も多くなる)。
それだけでなく、その後の室町幕府の立場も不安定にしてしまい、幕府が不安定という事は、民に回る利益も不安定になっていたかもしれないんですね。
政治には厳しさも(絶対)必要だという事を学びました。
しきしまさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
個人としての付き合いならともかく、政治家の「優しさ」は時として多くの人々を不幸にしてしまいます。
一見非情に見えることでも、長い目で見れば国益にかなう。
それだけの覚悟を、政治家だけでなく私たち国民も持たなければいけません。
なるほど、同じ地位の低さから天下人にまで
伸し上がった秀吉との違いは、そのお人好しの性格が厄しての事だったのですね。
自分の野心を叶える為の代償は、大多数を敵に回しても良いという覚悟でなければならないはずが、野心は叶えたい。けれど周りの人からは憎まれたくない・・という欲張った考え方は両立しなかったという事になるでしょうかね。
応援凸
このあたりが尊氏との大きな違いですね。
将軍として君臨し、天下を取る気概を持ちたいのであれば、周囲の目を気にして「良い子でいる」などということはできない、というわけですね。
それだけでなく、その後の室町幕府の立場も不安定にしてしまい、幕府が不安定という事は、民に回る利益も不安定になっていたかもしれないんですね。
政治には厳しさも(絶対)必要だという事を学びました。
個人としての付き合いならともかく、政治家の「優しさ」は時として多くの人々を不幸にしてしまいます。
一見非情に見えることでも、長い目で見れば国益にかなう。
それだけの覚悟を、政治家だけでなく私たち国民も持たなければいけません。