そんな折、尊氏の実子(じっし)でありながら父に嫌(きら)われ、直義の養子となっていた足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏派によって九州へ追われると、地元の勢力を味方につけて尊氏に反旗をひるがえしました。
九州の激変(げきへん)ぶりに驚(おどろ)いた尊氏が1350年に直冬を討伐(とうばつ)すべく自らが遠征(えんせい)すると、その隙をついて直義が南朝に降伏(こうふく)しました。南朝はこの頃までに尊氏派の武将によって吉野を追われて賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)まで後退(こうたい)していたのですが、直義の降伏で息を吹き返すことになりました。
直義は反尊氏派の勢力を引き連れて尊氏の子の義詮が守っていた京都へ攻め込み、敗れた義詮は尊氏を頼って備前(びぜん、現在の岡山県)へと落ち延(の)びました。室町幕府が成立してから10年以上も経(た)っていながら、天下は再び大きく乱(みだ)れ始めたのです。なお、これ以降の幕府の内乱は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
武断派と文治派の対立は、いつの時代でも
あるのが当たり前であり、
それでも、リーダーが存在している時は、
その争いは、表面化しないのが通常だと思っていました。
◆ 豊臣秀吉も文治派と武断派は対立していましたが、豊臣秀吉が存在している時は、組織としては、機能していました。
◆ 徳川家康も文治派と武断派は、対立していましたが、組織としては、機能していました。
そう考えると
足利尊氏が存在しているのに、表立った反乱がおこるというのは、
正直、足利尊氏のリーダーシップ力を疑ってしまいます。
青田さんへ
黒田裕樹 別の歴史を比較すれば、仰るとおり尊氏のリーダーシップのなさが浮き彫りになりますね。
資格のない者が上に立った悲劇ともいえるでしょうが、当時の人々にとってはたまったものではありません。
ビジョン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
足利尊氏には、『これから、どうしたいのか』というビジョンがイマイチ見えてきません。
たとえば、
源頼朝は、武家政権の設立。
織田信長は、天下布武。
などが見えるのですが、
足利尊氏がビジョンとして、武家政権を創るという強い信念があるなら、行動があまりにも
動きが遅いです。
これは、今の政治家も同じかもしれません。
つまり、ビジョンが???です。
今の政治家は
派閥やグループの顔色ばかりを観て、大臣や元総理がアホなことを繰り返しているので、
現場は大混乱です。
民主主義というのは、民意を反映させるので、
どうしても、ややこしい根回しは、必要だとは
思うのですが
それでも、どうも頼りない気がしてしまいます。
いったいこれから、何をしたいのかがイマイチ見えてきません。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにビジョンが見えてこないですね。
尊氏の場合、当初は鎌倉で幕府を開いて源氏や北条氏の政権の失敗を生かした政治を行う意思はあったと思われますが、講座で書いた通りの理由で京都で幕府を開いたことですべての予定が狂ってしまい、予定していたビジョンがグチャグチャになってしまったとも言えそうです。
いずれにせよ、政治に明確なビジョンが必要だということは、尊氏や現代の政権を見れば一目瞭然ですね。
ぴーち おはようございます!
尊氏の実子である直義はどうして父に嫌われていたのでしょうか?
尊氏の優柔不断の性格以前の親子関係に不備が
あった為に子供に命を狙われる事になってしまったと解釈しても良いでしょうか。
まあ、武将の親子関係でなくとも、親子の対立によって子供が外へ出ていくという事は何処の家庭でも起こりうる事ではあると思いますが、親に対して反旗を翻し、父親を亡き者にしようと考える程の深い恨みの根源は何だったのか気になりました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 直冬が尊氏に嫌われている理由として考えられているものとして、直冬の母の身分が低かったからだという拙がありますね。いずれにせよ、尊氏に疎んじられているのを哀れに思った直義が、自分の養子として迎えたようです。
そんな過程がありますから、自分の養子で本来ならば兄の子を、その兄自身が討とうとすることが耐えられず、それまでの鬱憤(うっぷん)が爆発して尊氏を裏切った、とも考えられますね。
こんばんは
青田です。
武断派と文治派の対立は、いつの時代でも
あるのが当たり前であり、
それでも、リーダーが存在している時は、
その争いは、表面化しないのが通常だと思っていました。
◆ 豊臣秀吉も文治派と武断派は対立していましたが、豊臣秀吉が存在している時は、組織としては、機能していました。
◆ 徳川家康も文治派と武断派は、対立していましたが、組織としては、機能していました。
そう考えると
足利尊氏が存在しているのに、表立った反乱がおこるというのは、
正直、足利尊氏のリーダーシップ力を疑ってしまいます。
資格のない者が上に立った悲劇ともいえるでしょうが、当時の人々にとってはたまったものではありません。
こんばんは
青田です。
足利尊氏には、『これから、どうしたいのか』というビジョンがイマイチ見えてきません。
たとえば、
源頼朝は、武家政権の設立。
織田信長は、天下布武。
などが見えるのですが、
足利尊氏がビジョンとして、武家政権を創るという強い信念があるなら、行動があまりにも
動きが遅いです。
これは、今の政治家も同じかもしれません。
つまり、ビジョンが???です。
今の政治家は
派閥やグループの顔色ばかりを観て、大臣や元総理がアホなことを繰り返しているので、
現場は大混乱です。
民主主義というのは、民意を反映させるので、
どうしても、ややこしい根回しは、必要だとは
思うのですが
それでも、どうも頼りない気がしてしまいます。
いったいこれから、何をしたいのかがイマイチ見えてきません。
尊氏の場合、当初は鎌倉で幕府を開いて源氏や北条氏の政権の失敗を生かした政治を行う意思はあったと思われますが、講座で書いた通りの理由で京都で幕府を開いたことですべての予定が狂ってしまい、予定していたビジョンがグチャグチャになってしまったとも言えそうです。
いずれにせよ、政治に明確なビジョンが必要だということは、尊氏や現代の政権を見れば一目瞭然ですね。
尊氏の実子である直義はどうして父に嫌われていたのでしょうか?
尊氏の優柔不断の性格以前の親子関係に不備が
あった為に子供に命を狙われる事になってしまったと解釈しても良いでしょうか。
まあ、武将の親子関係でなくとも、親子の対立によって子供が外へ出ていくという事は何処の家庭でも起こりうる事ではあると思いますが、親に対して反旗を翻し、父親を亡き者にしようと考える程の深い恨みの根源は何だったのか気になりました。
応援凸
そんな過程がありますから、自分の養子で本来ならば兄の子を、その兄自身が討とうとすることが耐えられず、それまでの鬱憤(うっぷん)が爆発して尊氏を裏切った、とも考えられますね。